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三国志の人物像~諸葛亮孔明 Part4

2021年3月25日

赤壁の戦いの後、周瑜は夷陵城を落とした。ここは将来、西川(益州)への足がかりになる上に江陵にいる曹操軍はもしもの時に西には逃げられない。曹仁は夷陵を奪い返しに大軍で攻めてきたが、持ちこたえた。曹仁は北に去り、さらに周瑜荊州の中央部の江陵を占拠し、程普は「沙い」を占領した。
荊州の中央部を当てにしていた劉備玄徳は公安を本拠地にして孫権の勢力の及ばない「湖南四郡」=武陵郡、長沙郡、桂陽郡、零陵郡を攻めて領地とした。大した抵抗もなく収まった。この時、魏延劉備の配下になっている。孔明はこの時、劉備玄徳から初めての官職「軍師中朗将」に任じられた。郡の太守より格下だが、武陵郡を除く三郡の統治を任された。関羽「襄陽太守」(襄陽には楽進がいるので名目だけ)、張飛は「宜都太守」、趙雲は「桂陽太守」になっている。孫権の勢力圏にあるはずの地元の名士も劉備の配下になる者もいた。さらに曹操配下になっていた有能な人材も曹操を離れ劉備の元を頼ってきた。龐統(龐雛と呼ばれた。孔明臥龍と呼ばれいた)、黄忠廖立、馬5兄弟(馬良馬謖たち)などなどが次々と玄徳を頼ってきたのだ。
曹操は大敗した教訓に、水軍の養成と訓練をしている。また鄴に銅雀台という豪華絢爛名宮殿を建てて勢力を誇示している。また荊州北部で屯田を開始し、来るべく戦に備えている。
孫権はこの屯田を妨害するために、合肥に兵を進めた。が、各地に兵を分散しすぎたために軍隊を駐留させても援軍は期待できず戦いは出来ない状態だった。実態以上に膨らみ過ぎたのだ。本拠地が空同然になり、やがて兵を引く。江南は人口過疎に悩んでいたのだ。
その頃、劉備の妻「甘夫人」が亡くなった。劉禅の母である。そうした処に孫権側から縁談が舞い込んだ。孫権の妹が自ら希望して劉備の妻になりたいというのである。政略結婚ではあるが、二人は結婚。が、勇ましい女性でお付の女性もみな同じく。江南の男性はみな孫権の妹を押し付けられるのを恐れて、劉備にお鉢が回って来たのだった。209年の事だった。劉備は数えで49歳、孫夫人は20歳そこそこ。
210年、劉備孫権に逢いに京口孫権の本拠地)に行った。が、周瑜劉備を江南に留めて荊州に帰さぬように進言した。一時は劉備を厚くもてなし豪華な住まいと美女たちで骨抜きにしようと試みた孫権だったが、魯粛の進言により劉備荊州に戻った。
その後、周瑜は西川(益州)を手に入れるべしと孫権を焚きつけ、孫権も決意した。が、周瑜は先年の曹仁と戦った際に流れ矢に当たった傷が元で急死した。西川への進軍は曹操の再度の進行を誘うだけと進言していた魯粛の意見と同じ気持ちの孫権は西川への進軍を取りやめた。
が、孔明益州(西川)は奪取すべしという考えを持っていて、やがて益州からの使者が来るであろう事は予見していた。幸い、益州への入り口である江陵は周瑜の死後は劉備の領地となっている。
211年、曹操は漢中の張魯征伐という名目で兵を進めた。が、目的は漢中への通り道である関中の軍閥を討伐する事にあった。軍閥たちは曹操の海千山千の策に翻弄され瓦解した。馬超韓遂は逃走した。こうして関中は平定され、後は漢中と益州である。益州牧の劉璋曹操が攻め入って来るのを恐れていた。212年、曹操は鄴に帰っていった。
劉璋は父の劉焉が益州牧になって以来の2代目のよそ者であった。劉焉は相当強引な手法で益州を平定している。が、益州の人間からすれば「よそ者」であった。劉璋は父ほど強くなく、どちらかといえば「暗愚」であった。先年、曹操に逢いにいった張松曹操に冷たくあしらわれて悪い印象を持っていた。が、彼は人を見る眼があり信頼できる情報だった。曹操が攻めて来た時のために頼りになる人物が必要だと益州では考えていた。劉備がふさわしい人物と目されていた。漢中が曹操に攻め落とされれば終わりだが、劉備が先に漢中を抑えれば曹操は防げるという持論であった。劉備に守ってもらうという魂胆だ。張昭の親友の法正が劉備に使者として行く事になった。が、内実は益州の主を挿げ替えるためだ。劉備益州の主として迎えるためだった。この事は劉璋や側近には秘密であった。
こうして法正は劉備の元に劉璋の使者として遣わされた。表向きは、漢中の張魯討伐の依頼である。(以前、大きな利過ぎた五斗米道の勢力を漢中に体裁よく追い出したのはいいが、益州張魯に脅かされていたのだ。それを劉備を味方につけて漢中を固めて曹操の軍を防ぐ。)が、本当の目的は(劉璋一派には秘密である)益州の主になって欲しいという事だった。劉備はこの申し出を断ろうとした。「他人の弱みに付け込んで他人の領地を乗っ取るなどとんでもない」と。が、孔明たちは渡りに船だからと、さかんに益州への出兵を進言した。天下三分の計という大事を成すためには、益州の簒奪という小事だと。渋々と孔明のいう事に承諾した劉備玄徳だった。
この事を知った孫権側は援軍(益州劉備に独占されるのを阻止するためなのは明白)を申し出たが、孔明の方で申し出を断っている。(劉備としては同族同士の争いではなく、孫権軍の友軍としてならと心が動いていた)

注:「劉き」も甘夫人と前後してなくなっている。