2021年3月27日
新しい益州政権は恩讐を超えた形で発足した。が、法正は法律は緩く~と主張したのに、孔明は今まで劉璋政権下では無政府状態に近く乱れているので、法律は厳格にすると主張した。悪い事をした者は罰するが、いい行いをした者は誉めるという事に落ち着いた。実際人々は秩序を求めていた。政権内部もきめ細かい配慮によって順調に滑り出していた。劉備は益州牧に、孔明は軍師将軍になっている。
そこへ孫権の使者「諸葛瑾」が来て、益州を得たのだから荊州を返してもらいたいという申し出があった。東呉(江南)では赤壁の戦いは我が軍の活躍によるところが非常に大きいので荊州は東呉のものだという考えであった。それを劉備が居座っているのはけしからん、早く返して欲しいという理屈である。
劉備は「荊州はやがてお返しするが、我が軍は今涼州に出兵しているので、涼州が平定されたらお返しします」と応えた。
荊州を一任された関羽雲長だが、孔明にも玄徳にも危惧があった。
それは関羽の性格だった。目下の者は凄くかわいがるのだが、同じ士大夫階級の者には凄く横柄な態度だったのだ。それは時には目上の者でも容赦なかった。曹操なら関羽のそういう所が好みなのだが、世の中そんな人たちばかりではないから心配だ。
その点、張飛は正反対で、目下の者には凄く横暴で時には蹴ったり殴ったりは日常茶繁時だったが、同じ士大夫階級の者には凄く愛想がよく、目上の者には卑屈なくらいへりくだっていた。
劉備はこの点が心配で常日頃から二人に注意していた。特に張飛に対して。関羽の事を「せめて益徳の士大夫に対する態度のちょっとだけでもいいから見習って欲しい」と嘆いていた。
正史三国志には
「関羽は協伍に善く侍すれども、士大夫に驕なり。張飛は君子を敬愛すれど、小人を憐れまず。」
関羽は相変わらず同僚に横柄で、兵糧担当の糜芳や傅士仁は不満を募らせていた。
215年の曹操の張魯攻めの最中、孫権は荊州の三郡(長沙・桂陽・零陵郡)に勝手に太守を任命して関羽は追い返している。それで孫権は攻めて来た。劉備も益州から駆けつけているが、呂蒙により三郡は攻め落とされた。曹操の動きが気になる劉備と孫権の陣営は早期決着を決めた。先の長沙・江夏・桂陽の三郡は東呉に引渡し、残った南郡・零陵・武陵郡は劉備側の領地になった。急いで本拠地に戻った孫権は合肥に軍を進め城を奪おうとしたが、城は落ちず帰還途中に張遼に追い討ちをかけられ命からがら逃げ延びた。劉備といえば、曹操は漢中の張魯を降服させた後、益州領内に配下を使って侵攻してきたが、劉備軍は撃退している。
同年216年には曹操は魏公から魏王になっている。すでに曹丕が跡取りになる事も決まっている。
217年、東呉の実質的な都督であった周瑜(反劉備派)の後を継いだ魯粛(親劉備派)が亡くなった。それまでも東呉との間でいさかいがあっても魯粛の力でなんとかなっていた。その人物が死んだのだ。後任は呂蒙になった。
217年から219年にかけて曹操と劉備で漢中の争奪戦が繰り広げられた。孔明は同行せずに内政の充実に努めている。が、関羽の事が気がかりだった。
219年、漢中を奪取した劉備は漢の太祖「劉邦」の故事にならい「漢中王」と称した。新しい人事も発表された。が、関羽は気に入らない。関羽は前将軍となったが、後将軍が黄忠なのだ。左将軍の馬超は納得がいく。右将軍の張飛も同様。前後左右将軍は九卿に順ずる位で同格である。関羽は以前から黄忠と仲が悪かったのだ。「あの老いぼれが」と機嫌悪かった。孔明は「軍師将軍」のままだった。
劉備が漢中を後にする際、魏延を漢中太守・征北将軍に任じていたが、これも以外だった。誰もが張飛が任命されると思っていたからだ。が、魏延は劉備に重用されていたのだ。
その頃、曹操軍は合肥で孫権と樊城で関羽と戦っている最中で曹操はそちらの方も気になっていた。また中原(黄河流域)では疫病が流行し、曹操の跡取りは決まっていても曹植擁立派の動きも気になっていたのだ。
そうした中、孫権は関羽の娘の婿に自分の息子をと申し出た。が、関羽は「虎の子を犬の子にやる訳にはいかん!」と断った。いつもの悪い癖が出たのだ。