tarobee8のブログ(戯言)

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三国志の人物像~諸葛亮孔明 Part7

2021年3月28日

219年、関羽曹仁の守る樊城を攻めていた。曹仁の援軍として于禁龐徳が駆けつけた。が、洪水が起こり于禁の軍は壊滅。于禁は降服し、降服を拒んだ龐徳は斬首された。于禁荊州に身柄を拘束される。さらに関羽は樊城を包囲したまま、襄陽まで攻め入る。魏側では関羽に寝返る者もいて苦戦していた。曹操は先に関羽孫権との縁談を無下に断っている事から不仲になっているのを利用した。孫権とは和睦して関羽を攻める事になった。呂蒙は計略を用い持病の肺結核が悪化したのでと、官を辞した。後任は陸遜である。これに関羽は油断した。陸遜は親劉備派だったからである。
関羽于禁軍数万を捕虜として抱え込んでいて、兵糧が不足していた。孫権側の倉庫から勝手に食料を持ち出した。これにまたしても孫権は怒る。
さらに魏では徐晃を樊城救援にかけつけさせていた。関羽軍は押され後退する。東呉でも前記の件で劉備との同盟は切れたと判断し、軍を進めた。陸遜に代わり呂蒙が大都督に返り咲いた。兵站担当の糜芳傅士仁孫権側に寝返った。これに慌てた関羽は麦城に逃げ込んだ。麦城は小さく兵糧もほとんどない。逃げ込めたのは数百名だけ。麦城の近く上庸郡太守の孟達がいるが、援軍に来ない。関羽は先日、孟達から援軍を送られているが、追い返している。が、こうなったら上庸の孟達を頼るしかなかった。が、上庸に向かう途中で捕まり、息子の関平と共に斬首された。関羽の首は曹操の元に送られた。物語では関羽の首が曹操に災いをもたらしたように書いてある。また呂蒙とその後継者の若い陸抗も相次いで亡くなっている。
孫権は「驃騎将軍」「荊州牧」「南昌候」となった。
孟達劉備に恨まれていると思い、魏に投降した。後に孔明の北伐の時に再登場する。

益州では漢中王になったばかりの劉備は復讐を誓った。が、孔明に説得されて一端はあきらめた。

220年、曹操は病死した。脳腫瘍だったのでは?と現在では推測されている。物語では関羽の祟りとも書いてある。
曹丕は魏王になり、献帝から皇帝の位を禅譲された。献帝(劉協)は山陽公になったが、「朕」という一人称は皇帝と同じく使えるなど厚遇されて、234年に天寿を全うした。物語では地方に追い出され殺されたと書かれているが、創作です。でも孔明と同年に生まれ同年に亡くなっているのは偶然とはいえ不思議です。

曹丕が皇帝になった報を受けて、孔明劉備に皇帝になるように促した。献帝は生きていたが、その事実を知れば劉備は皇帝になるのを拒むと思い、献帝は亡くなったと告げてある。また益州には献帝は亡くなったと伝わったらしい。
221年、劉備は皇帝に即位し国号も「蜀」に変えた。孔明は丞相になった。
が、劉備は東呉を討つ事をしばしば口にする。孔明趙雲も反対している。中には反対して投獄された者もいる。孔明は東呉を討つには十分な準備が必要で、しかも東呉は魏に対抗するために必要な同盟国なので反対なのだ。しかし、東呉には兄の諸葛瑾がいるので、あからさまな反対をすれば蜀の丞相としての立場がない。趙雲は悪いのは魏で、東呉は魏に従ったまで。魏を討つのが先決で魏を討てば東呉は自ずから蜀に従うからという理論だった。また孔明は徐州での曹操の大虐殺の残影が残っており曹操とその一族は受け入れがたいものだったから、魏の天下を許すわけにはいかなかったのだ。だから曹操一族の魏が天下を牛耳るのだけは認めたくなかったのだ。なので東呉はそれほどの問題ではなかったのだ。
が、とうとう反対意見を押し切って、東呉征伐に劉備は乗り出した。孔明は「法正(220年に亡くなっている)が生きていてくれたら」と思った。法正ならきちんと劉備を説得してくれただろうと。
そんな中、車騎将軍で劉禅皇太子の嫁の親である張飛が部下に殺された。普段から部下には厳しい張飛だが、酒が入ると手に負えない。普段から恨まれていたのだ。東呉征伐が決まってから、ますます激しい訓練になり、みながこのままでは戦場でなく張飛によって殺されると恐怖に怯えていたのだ。酒を飲んで眠っている時に寝首を掻かれたのだ。趙達と范彊の二人だ。趙達と范彊は東呉に逃げた。
義兄弟の関羽ばかりでなく、張飛も殺されたとあって劉備は怒り心頭に達した。
こうして、221年に東呉征伐の軍が出発した。孔明趙雲も反対しているので、参戦していない。
東呉は若い陸遜を大都督にたてている。孫権の娘婿でもある。当初、慌てた孫権は領地の一部を返すから和睦してくれと要請した。が、劉備は頭に血が上っていて拒否した。蜀軍は進軍しているが、東呉軍は適当に戦っては逃げ、適当に戦っては逃げる。こうして夷陵まで進撃した。ここで野営していた蜀軍に陸遜は夜襲をし火攻めした。瞬く間に蜀軍は炎に囲まれ死者多数、降服する者も数知れず。張南、馮習、沙摩下、馬良たちも戦死。杜路と劉寧たちは東呉に投降。黄権は東呉に下るならいっそ魏にと魏に逃げて投降した。
劉備益州へ命からがら逃げ延び白帝城に逃げ込んだ。そのまま成都には帰らなかった。
222年、孔明は自分の一存で東呉と和睦している。
223年、劉備孔明白帝城に呼び、私的な感情で開戦し多大な犠牲者を出した事を詫びた。もう長くないと悟った劉備孔明重臣たちを集めて遺言する。「わが息子に天子としてに才能があれば補佐してやってくれ、もし我が息子が補佐するに当たらないのであれば孔明が皇帝になり国を治めよ」
孔明は、劉禅の補佐に徹しますと答え自分が皇帝になる気がない事を劉備重臣たちに示した。
この時、劉備の皇太子である劉禅は皇帝代行の職務があるために成都を離れられないでいた。
223年、劉備玄徳は亡くなった。数えで63歳だった。