三国志の人物像~諸葛亮孔明 Part8

2021年3月29日

実は夷陵での戦いの後、東呉ではこのまま白帝城に攻め入れば劉備を討てる(蜀を討つ)と主戦論が高まっていた。が、陸遜たちは今、白帝城を攻めれば孔明趙雲たちも出てくる、長期戦になれば魏の動きも気になる・・・今は引き返すべしと進言した。曹丕孫権の子「孫登」を人質にと要求している。孫権は引き上げを命じて魏の要求も跳ね除けている。実際、魏は東呉に攻め入っている。が、引き返した。注:1の事情もあり孔明は「とうし」を派遣して「222年12月に東呉と和睦している。劉備が亡くなる前年の事だ。222年には孫権曹丕に要求して「呉王」になっている。

とうし=(登+阝)+芝

注1:劉備の敗戦後、蜀では内乱が起きた。漢嘉太守の黄元が謀反を起こしたが、すぐ鎮圧された。問題は蜀の南部(雲南省~タイ北部)の少数民族漢民族西南夷と呼んでいた)であった。東呉の南部に交州(現在の広州付近~ベトナム北部)があって、士燮(しゆう)という実力者が孫権から太守に任じられて統治していた。が、高齢で自分の死後は東呉に吸収される運命にあった。そこで蜀南部の少数民族と同盟して孫権に対抗しようとする動きがあった。雍闠(ようかい)という少数民族の首長を抱きこんで、蜀南部の他の首長にも誘いをかけていた。孟獲もその一人だった。また劉璋時代からの漢人の役人による搾取にも反感を持っていた。
こうして反乱が起きた。が、孔明孟獲と連絡を取り合っていた。孟獲もどちらに付こうか迷っている。が、漢人の役人を派遣しない事、少数民族のある程度の自治権も認める事を約束し、孟獲を蜀側に引き入れる事に成功した。
この頃、驃騎将軍の馬超、後将軍の黄忠、法正の後任の劉巴も病死している。

225年、孔明は参謀に馬謖を用い、魏延馬忠李恢張儀たちを従えて南征に出陣した。なるべく流血は避ける方針を馬謖が演説した。馬謖馬良の弟で弁舌がたつ。孔明は自分の後継者の一人として考えていた。
が、ここで孔明は大軍を率いて指揮するのは初めてだった。また自分と意見が食い違う魏延とは馬が合わなかった。劉備には重用されてかわいがられていた魏延孔明には嫌われていた。また馬謖については劉備から「あの者は言う事の十に一つも出来ないから、あまり重用しないように」と臨終の際に遺言されていたのだ。
蜀は先年の大敗で疲弊している。出来るだけ兵の損失を少なくして、強引な武力行使西南夷の人心を失ってはならない。
蜀の南部に入った時、雍闠は味方に殺された。孔明が無理難題を押し付けていると流言し、他にも不審な言動があったためだ。孔明は奇妙な作戦に出る。せっかく捉えた孟獲を釈放するのだ。こうして7度捕らえられた孟獲は7度も釈放された。が、7度目の釈放で孟獲孔明に降服を申し出た。これを知った他の首長たちも孔明に降服した。
実は孟獲とは裏取引があって、事前に打ち合わせをしていたのだ。こうして西南の首長たちは蜀に服従する事になった。
が、戦に使ってもらえなかった魏延は不満だった。
この頃、また曹丕が東呉に戦を仕掛けている。