tarobee8のブログ(戯言)

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三国志の人物像~諸葛亮孔明 Part9

2021年3月30日

孔明が南征を行っている最中に、魏の曹丕は東呉に親征した。が、河が凍結していたために長江(揚子江)に船を進める事が出来ず、撤退した。225年12月である。帰還途中、東呉に追い討ちされ曹丕は危うく命を落とすところだった。226年5月、曹丕は病死した。数えで40歳だった。曹丕の長男の曹叡が皇帝に即位した。曹叡の母親は元々、袁煕の妻であったが、曹丕は戦勝したため略奪して妻にしている。しかも母親は5年前に曹丕に殺されている。曹丕を恨んでいるという讒言を信じたためだ。曹叡は皇太子になるまで不遇だったのだ。この年、東呉は魏に数回攻め入っているが、全て撃退されている。また東呉に隣接する交州は士燮が亡くなり、東呉に併合されている。

蜀では南征後、疲弊した経済の再生に尽力していたが、227年3月、出師の表を劉禅に提出して魏討伐に出発した。劉禅はまだ若くしかも聡明でない、遊び好きで宦官に頼る事が多い。孔明劉禅に幼い子に言い聞かせるようにして表を提出したのだ。留守役の選出には苦心したようである。また、孔明正室の「綬」を兄の諸葛瑾のいる東呉に行かせている。表向きは諸葛家の実家に戻すという事だが、実際は遠征中に東呉に攻め入られないように孔明の方から東呉に釘を刺したのだ。が、これが永遠の別れになった。兄から養子にもらった息子の諸葛喬と孫の諸葛攀(しょかつはん)は蜀に残った。孔明には側室の「綿」がいる。
魏では曹丕の遺言により、曹叡の補佐役として、司馬懿仲達、曹真、陳群が付いている。このうち、司馬懿仲達は海千山千の老獪な文武に優れた将軍である。
魏には数年前に関羽に援軍を送れずに魏に下った孟達がいる。最初、曹丕に優遇されていたが、曹叡の代になり疎まれていた。今は、元の領地の上庸太守をしている。孔明は本心から蜀を裏切ったのではない孟達と以前から連絡を取っていたのだ。孟達を寝返らせて洛陽を攻撃しやすくしようと考えていた。孟達を蜀に寝返らせる事に成功した。が、この情報は司馬懿仲達に漏れて仲達は素早く進軍して孟達を打ち破った。
228年、孔明は漢中を出た。魏延は隊を2手に分け、自分が長安を一挙に突く作戦を提案する。が、孔明は受けなかった。孔明はひたすら石橋を叩いて渡る作戦だった。魏延はこの後の魏遠征でもその度に同様の提案をしているが、孔明は全て跳ね除けている。
孔明趙雲をおとりに使い、曹真の裏をかき魏の一部の郡は蜀側に付いた。進撃して来る魏軍を街道沿いに待ち受けて撃破する作戦に出た。が、この作戦に馬謖を使ってしまった。物語では馬謖が自分は口ばっかりで実際に前線で戦った事がないので、みなが自分を信用していない・・・だから自分なら絶対に敵を撃破してみせるからと強引に志願した事になっている。が、孔明馬謖を信用し過ぎていたのだ。だから起用した。馬謖幼は孔明から絶対に街道に陣を張るべしと命令していたのだが、馬謖はこれに従わず街亭の山頂に陣取った。眼下の様子が手に取るように分かるからという理由からだった。魏の張郃(ちょうこう)はこの山を包囲し兵糧攻めした。これで馬謖の軍は壊滅した。こうして主力部隊を失った蜀軍は撤退した。馬謖は軍律違反で斬首された。孔明は法家思想的な考えで、信賞必罰で蜀を正してきた。例外は許されないのである。例外を許せば後はなあなあになってしまう。敢えて自分が一番信頼していきた馬謖を切ったのだった。
孔明は自ら丞相を辞し、右将軍に降格している。が、他に代わる人物がいないので「行丞相事」という丞相代理にもなっている。趙雲も鎮東将軍から鎮軍将軍に降格している。この街亭の戦いでバラバラになった兵をまとめて撤退させたのは王平であった。これで随分と蜀軍の損失は防げた。そのため昇格している。
(この戦いの途中、綿夫人に男子が誕生している。諸葛瞻(しょかつせん)である。後に263年、魏の大軍が押し寄せて来た時に蜀軍は誰も戦わず、息子の諸葛尚と共にただ一隊だけで戦い戦死した。)
228年の暮れにも再度北伐に出た。この時の後出師の表はどうやら後世の創作らしい。この時は曹真にしてやられ食糧不足で撤退した。
229年、3度目の北伐に出ている。氐族や羌族を味方につける事に成功している。この時、魏の2郡を奪取している。が、それ以上侵攻しなかった。この勝利で孔明は丞相に復帰している。この戦いの後、趙雲は病死している。
230年、4度目の北伐というよりは、曹真の意を受けた魏が攻めて来たのだ。迎え撃った孔明は今度も有利に進めていたが、兵站担当の李厳孔明に手柄を独り占めされるのを嫌い食料を送らなかった。これで撤退する。帰還した孔明李厳を罰し庶人に落とした。
234年、5度目の北伐。今度は屯田を行い長期戦の構えだった。相手の大将は司馬懿仲達だ。この時も今までの北伐時と同様、孔明は東呉に魏を攻撃するように依頼している。魏では皇帝「曹叡」が呉に対して親征をしている。呉は陸遜を大都督に魏と対峙する。
孔明五丈原に陣を構えた。
仲達は守りを固め撃って出ない。曹叡から自分が呉を破って合流するまで戦はしないようにと命じられていたからだ。孔明はこの時、持病が悪化していた。肺結核だったようだ。曹叡がもし呉を打ち破り、仲達の軍に合流して来たら危うい。その前になんとか仲達を引きずり出さねばならない。蜀軍10万、魏軍30万でのにらみ合いが続いた。孔明は仲達に手紙を出し、挑発した。「魏の大将は戦々恐々としてひたすら矢面に立たず、魏の大将は女性であろう」と。
魏の将軍たちは怒った。今から討って出て雌雄を決しようと主張した。が、仲達は「皇帝陛下に上奏してみる」と平然としていた。曹叡からは「もうすぐ呉軍は片付くので、それまで待っているように」と返書が来た。仲達は動かない。まるで孔明が病死するのを待っているかのように。
が、蜀軍では魏延は今回も長安急襲策を退けられていて不満だった。にらみ合いを続ける孔明に不満を募らせていた。
もう長くないと自覚した孔明は「自分が死んだら、魏延を置き去りにして撤退するように」と魏延を除く楊儀姜維たちに遺言していた。何にも増して、孔明には頭が痛い事があった。それは文官の楊儀と大将軍の魏延の不仲である。両者ともに蜀にはなくてはならない人材である。それが以前から不仲で、この北伐でさらに不仲になっている。「この二人が力を合わせてくれていたら・・・」魏延孔明であろうとハッキリ自分の意見を言う。これは誰に対しても同じだった。なのでみなと不協和音だったようだ。楊儀は聡明だが、この人も人間関係は問題ありだった。自分は孔明の後継者だと勝手に思ったりしていた。成都では魏延が普段から不仲の楊儀に対して剣を突きつけて脅し、楊儀は泣いて詫びる事もあった位だ。
孔明は234年8月23日に病死した。最後の言葉は「旗をひるがえせ、鼓を鳴らせ」であった。数えで54歳だった。ちなみに献帝もこの年の3月に亡くなっている。