tarobee8のブログ(戯言)

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社会主義革命

2021年8月19日

ダイレクト出版のメールマガジンより引用
以下引用
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私はと言いますと、同居しているお義父さんと一緒に昭和歌謡を聞いておりました^^;

(バンバンの「『いちご白書』をもう一度」が特にお気に入りの1曲です)

そうやってゆったりしていると、お義父さんがこんなことを言ったんですね。

「この年代の歌を聞くと、当時の青春を思い出すなぁ」と。

そうして、私も聞き返しました。お義父さんの年代っていうのは、どういう時代の中を過ごされたんですか?」と。

すると、こんな返答が返ってきました。

「小さい頃は戦後間もないから食料が少なかった。学生の頃は安保闘争とか、学生運動ばっかりやってたなぁ
大変な時代やったと思うわ」

なんと、お義父さん自身が学生運動に参加していたらしいのです。

私もその年代のことは、映像や書籍の情報しかなかったので、興味津々で聞いてみました。

「どうして学生運動に参加されたんですか?」と。

すると、、「理由はよくわからない。なんとなく参加してたんかな?」

といったように、なんとなく曖昧で、本人もよく分からないという回答が返ってきたのです。

何も理由がないのに人は行動しないだろう…と思った私は、改めて、調べ直してみることに。

すると、東北大学名誉教授:田中英道先生の研究でその原因が明らかにされていました。

「なぜ、あの時代の学生が反抗したのか?」
その答えを紐解く1つのキーワードにGHQ占領政策が関わっているというのです。
一体どういうことでしょうか。
田中教授の研究によると、私たちが大きく勘違いしていることがあるのだそうです。

それが、GHQは日本を民主主義化するために占領政策を行っていないということ…

実は、GHQ占領政策自体は日本に「共産革命」を起こすためのものだった…というのが田中教授の出した結論でした。

「え!?」と思われますよね。私も思いました。
では、これはどういうことなのか?
実は、戦後50年が経過したタイミングで、1束の極秘文書が見つかったのです。

その内容を簡単にまとめると…

占領政策はすでに1942年時点の大戦中に決められていた。

●ここで重要なのは、政策を決めたのはGHQではないこと。

OSSというCIAの前身組織が全て仕組んでいたものをGHQがただ実行しただけである。

●このOSSという組織は、米国に潜り込んだ左翼ユダヤ人…つまり、左翼社会主義者たちの巣窟であった。

●その組織を作った当時の大統領ルーズベルト自身も隠れ社会主義者だった。

●左翼組織がつくった占領政策を実施することで、結果的に、戦後日本に共産革命を起こそうとしていた。

なかなか信じがたいですが、これらが全て米国の極秘文書に書かれていたことでした。

田中先生はこう言います。

「日本が誰の手によって支配されていたのかを知らないと戦後日本の本当の姿というのは分かりません。

未だに多くの日本人が、『GHQが日本を民主主義化するために占領政策を実施した』と思わされています。

確かに、マッカーサー自身は民主主義でした。しかし実のところ、大本のルーズベルト政権、そしてOSSという組織自体が
社会主義者たちの巣窟であったのです。

当時の米国の中には、左翼ユダヤが入り込んでいて、OSSも左翼ユダヤが牛耳った組織でした。

それに気づかず、実際のところ日本は「社会主義化」のための占領をされていたのにも関わらず、戦後76年間ずっと「民主主義化」
されたと思わされ続けてきたのです。

そして、国民は気づかぬまま、日本は徐々に狂わされていきました…」

こうして、日本国民の多くが左翼思想に変えられ、戦後日本は形作られていったそうなのです。

私は、これらの一連の背景を知った時に、「歴史は全て線で繋がっているのだな」ということ…

そして、「私たちも『歴史』と無関係ではいられないのだな」というのを改めて実感しました。

もしかすると、あなたも私も、知らず知らずのうちに左翼思想を埋め込まれているのかもしれません…
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引用終了

なお、蝋山政道(ろうやままさみ)と有沢広巳(ありさわひろみ)と言う社会民主主義者で日本軍に発言権のあった2人が
日本とアメリカを戦わせて、帝国主義同士を争わせて疲弊させて、社会主義革命をやろうと日本が勝てそうな方法を
考えました。昭和天皇は戦争は絶対にノーでしたから、勝てそうな作戦です。それが、日本軍は南に降りて西に行くという
作戦でした。決してアメリカとは戦わないでイギリスとオランダと戦うと言う作戦でした。南に降りてインドシナ
インドネシアを白人の手から解放してフィリピンは一時的に占領するかも知れないが、すぐアメリカに返して決してアメリカを
怒らせない。そしてインド洋に出てイギリスの補給路を断ち、それによってインドを独立に導き、それと同時に補給路の
絶たれた蒋介石政権を落とし、日中戦争を終わらせるというシナリオでした。
それで昭和天皇陛下は戦争に渋々と合意されていたのです。が、この2人が永野修身山本五十六を焚きつけて、絶対に
やってはいけないという真珠湾攻撃をやらしたのです。
そしてイギリスとオランダとの戦争だったはずが、アメリカを怒らせてアメリカという巨人との戦争になって本来あり得なかった南太平洋での戦争になりました。
そのために予定外の南太平洋の島々でジャングルでの戦いになりまして日本軍は大敗しました。
永野修身山本五十六蝋山政道や有沢広巳や尾崎穂積らを裏で操っていたのが近衛文麿の側近でソ連のスパイの風見章です。
結局2人の目論見は失敗しましたが、戦後日本を占領したGHQOSS
指令通りに日本の上級職の人たちを公職追放して、共産主義者を社会復帰させて日本の主な要職に就かせて共産主義者
戦後の日本を牛耳り未だに続いています。日教組やマスコミがその典型例です。だから彼らは「反日左翼」と呼ばれて
大嘘の歴史を教えて絶え間なく日本が悪かった・・・云々と学校でテレビや新聞で民衆を洗脳して今もそれを信じている
人がほとんどです。
日本の憲法GHQが書いたのを昭和天皇のお命と引き換えに吉田茂白洲次郎と松本譲二に飲ませて、日本語訳したものです。
今の憲法9条は英語の原文では憲法8条でしたが、後世に「これは憲法窮状だぞ」と暗号の意味で憲法9条にしたと思っています。
私は東京裁判史観(自虐史観)の教育を受けましたが、周囲には戦前・戦中の本当の事を教えてくれる人たちがいて
どうもおかしいと学校の教育やテレビや新聞の報道には???でした。結局は本当の事が分かって今は覚醒しています。
今回の新型コロナウィルスの報道も一切信じておりません。2020年のアメリカ大統領選の不正もマスコミは一切報じずに
絶え間なくトランプを悪者扱いしてきました。そう言ったインチキ報道は一切信じておりません。
テレビや新聞は見ない読まない事です。学校で教える歴史も信じない事です。そうすれば騙されません。自分で調べる事です。まず疑ってみる事です。

また何故ダイレクト出版のメルマガを引用したかと言うと・・・
私自身が中学校3年生の時に担任の教師に内申書に酷い事を書かれて。当時「広島学院」に在学していたけど、本当は「修道学園」に行きたかったのです。
家族全員が大反対して凄く抵抗しましたが、「広島学院」でないとダメだと強制的に広島学院に入学させられましたので、嫌で嫌でたまらずに、退学して
地元の公立中学校に転校したかったんです。が、5歳年下の弟が「広島学院」に入学希望で、私が退学したら弟の入学に支障があるからとまた大反対されていました。
とうとう業を煮やした私は中3の2学期の末に退学届けを出しました。そしたら両親が怒りました。当時、担任ではないが、勉強のアドバイスをしてくれる教師が広島学院にいて両親を説得してくれて、「大丈夫ですよ。〇〇君が退学しても弟さんの入学には
支障がないですよ」と言われて両親は納得。中3の3学期は中学卒業と同時に退学するという条件の特別クラスに通いました。成績が悪くて落第する可能性の高い生徒が入るクラス
でしたが、私は成績は悪く無くて偏差値74でした。広島学院で偏差値74と言えば公立の学校ではトップです。
が、中3の担任とは普段から犬猿の仲で、滑り止めに受けた「崇徳学園高校」は合格。しかし、広島市の5校と呼ばれる名門の公立高校にはテストでは合格していて内申書
点数も含めて合格でしたが、何と内申書の担任の人物評が「もの凄く反抗的で、将来学生運動のリーダーになる可能性が非常に高い」と書かれてあったそうで、不合格にされました。
当時は1969年に東大の安田講堂事件がありテレビで実況放送をされていて、
学生運動というだけでタブーでした。危険思想家と思われる状況だったのです。私は共産主義社会主義学生運動も大嫌いでしたが、その大嫌いな共産主義者で過激な学生運動家になると思われて、当時の風潮ではそう言った人物を受け入れてもらえません。
何故、内申書の内容が分かったかと言うと、父が広島県教育委員会に所属していて広島市の5校は毎年、広島市広島県教育委員会が交互に交代で合否を判定していました。
私が受験した年は広島市の担当で、広島県側の父は分かっていてもどうする事も出来なかったそうです。結局は「崇徳学園高校」に入学しました。父は怒っていました。
「せっかく文句も言わずに大人しく出て行くのに、追い打ちをかけるような事は許さん!」と息巻いていました。
その後、高校卒業前になって病気で入院していて卒業式の卒業証書は病院で父から受け取りました。
2年後に退院した私が、大学受験のために願書を各大学に提出しましたが、いつまで経っても受験票が届きません。電話で問い合わせると「願書が届いていません」と言われて
大急ぎで再度成績表などを崇徳学園高校に発行してもらい願書を転出したら「もう受付期限を過ぎていますので受付られません」とどの大学からも言われました。
毎年同じ事の繰り返しでした。どうやら私はブラックリストに載っているようで、文部省から各大学に〇〇は危険だから入学させるなと通達が出ているのを感じました。
中3の担任を恨みました。少なくとも個人的な感情で公文書を書いて欲しくない。当時の状況では学生運動のリーダー云々と書かれると社会的に排除される時代でした。過激思想家と思われるからです。
大学は左系ですが、過激な人は御断りですので。
私が入院中にあった浅間山荘事件などもインパクトが大でした。
仕方なく、大学はあきらめて方針転換して、親戚の病院に就職する事にして準看の学校に合格して就職もして入学しました。文部省のブラックリストには入っていても厚生省のブラックリストには入っていなかったのです。
まさか広島学院出身者が看護学校に行くなどとは考えていなかったのでしょう。その後、正看の学校に入学して働きながら学んで正看護師の資格を取りました。当時は看護師ではなくて男性は「看護士」でした。
結局はエリートコースからは外されましたが、それなりに何とかなりました。
でも大学を出ていないばっかりに苦労しました。バカにされました。
今でも思っています。学校の教師が個人的な感情で公文書を書くなと。少なくともあの教師は今でも大嫌いです。人生が多いに狂いました。