tarobee8のブログ(戯言)

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聖徳太子の祈り

2021年12月28日

伊勢雅臣のメルマガより

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■1.太子は何を目指したのか、その肉声を聞く

 今年は西暦621年に亡くなられた聖徳太子の1400回忌の年で、様々な記念行事が各地で開かれました。1400年も前の人物が現在と何か関係あるのか、と思われるのが常識でしょうが、それが「大あり」だという私個人の経験を述べたいと思います。

 太子を回顧する企画の一つとして開かれた奈良国立博物館の特別展「聖徳太子法隆寺」で、心動かされた展示がありました。聖徳太子の直筆と伝わる「御物 法華義疏(ほっけぎそ)」です。法華経の注釈書を、太子ご自身で書かれたと伝わる巻物です。

 縦横1センチほどの漢字がびっしり並んで、所々字を書き直したり、書き加えたりされています。いかにも太子があれこれ考えながら、文章を書かれている様を思い浮かべることができました。ある専門家は、この巻物の字体に関して、こう述べています。

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 巻の部分部分で筆致が異なり、字の気分が異なっています。急に文字が小さくなったり、細身の字になっています。文字を書く専門の人間が書いたのなら筆致が揃ってくる筈ですが、さうではなく、研究をしている人や、或いは一日の朝から晩までその仕事をしているのではなく、自分の時間のある時にやっている人の書きぶりと思います。[松井]
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 聖徳太子は政務を執られながら、合間合間に筆を進められたのでしょう。政治上の問題が生じた時には、それが気になって集中できない、そういう影響が筆致にも現れたのではないでしょうか。

 太子は伝説中の人物で、大変に尊敬されてきましたが、逆に実在の人物ではなかった、などという研究者まで現れています。

 どちらにしろ、太子を一人の人間として、「当時の歴史の中で、日本という国において、いったい何をしようと欲したのか。そういうことが、今までの太子論では、十分に明らかでなかった」と、梅原猛国際日本文化研究センター名誉教授は大著『聖徳太子』で述べています。[梅原1,p17]

 本稿では、梅原氏の著作を頼りに私見を交えつつ、太子は何を目指されたのか、その肉声に耳を傾けてみたいと思います。そこからは、我々自身の家庭や職場、企業、さらには国家のあるべき姿や、活性化のための深い智恵が聞こえてくるのです。


■2.日本を統一国家とするために

 日本書紀によれば、推古天皇11(603)年、30歳になられていた太子は、12月に冠位十二階を制定され、翌年4月には十七条憲法を定められます。

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 冠位十二階と憲法十七条が、聖徳太子の行った政治改革の中心であることはまちがいない。そしてこの二つは、深く関係している。[梅原2、p243]
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 大陸では随がおよそ300年ぶりに全土を再統一して、朝鮮半島北部の高句麗へ侵攻を始めていました。その外圧が強まる中で、日本国内は大陸からもたらされた疫病の流行、仏教導入を巡っての蘇我氏物部氏の戦い、蘇我氏による崇峻天皇弑逆(しいぎゃく、暗殺)など、内政の混乱が続いていました。

 聖徳太子は、そのような内憂外患の危機的状況を打開すべく、日本を、氏族が勢力争いを続ける国家から、天皇を中心とする統一国家へと変革するために、冠位十二階と憲法十七条を制定したのです。


■3.冠位十二階による出身にとらわれない人材登用

 冠位十二階とは、出身氏族に関わらず、広く有能な人材を登用し、活躍させるための仕組みでした。たとえば最高位の大徳を授けられた一人、小野臣(おののおみ)妹子(いもこ)は、弱小氏族・小野氏の出身でしたが、太子の外交面での片腕として活躍しました。

 大徳として並んでいるのは、蘇我馬子の弟ないしは甥の境部臣(さかいべのおみ)雄麻呂(おまろ)と、大氏族である大伴氏の長、咋子(くいこ)で、二人は血筋では馬子に次ぐ人物でした。弱小氏族出身の妹子が、こういう有力氏族の長と並ぶ冠位についたのです。

 その他にも、下級氏族出身ながら、大徳に次ぐ小徳の位についた秦(はたの)河勝(かわかつ)、帰化人で第3位の大仁を授けられた鞍作(くらつくりの)鳥(とり)などが、太子のもとで活躍しました。

 出身氏族に関わらず、有能な人材が天皇のもとで活躍することで、有力氏族の力を押さえ、天皇中心の統一国家建設を推進したのです。出身にとらわれない人材登用は、「人間は本来、平等である」という太子の人間観が現れたものと考えられます。


■4.冠位十二階に込められた理想

 冠位十二階は、徳-仁-礼-信-義-智という6つの徳目にそれぞれ大小をつけて12の位としたものですが、このように徳目をそのまま冠位に用いる徹底性は、大陸や半島の冠位制度にはほとんど見られません。そこに「位の高い人物は徳も高くなければならない」という太子の理想が表れています。

 また、「徳」以下の具体的徳目の順位も儒教の五徳で言われる「仁-義-礼-智-信」に比べて、礼が3位から2位へ、信が5位から3位へと格上げされています。この順序が十七条憲法の構成に次のように対応していると、梅原氏は説きます。

 第1条「和をもって貴しとし」~3条  和(仁の代わりに)
 第4条「礼をもって本とせよ」~8条  礼
 第9条「信はこれ義の本なり」~11条 信
 第12条「国に二君なし」~14条   義
 第15条~17条「事はひとり断(さだ)むべからず」 智

 ここでいくつか疑問点が出てきます。

 (1) なぜ「仁」ではなく、「和」なのか?
 (2) なぜ「礼」が「義」の上位に置かれ、かつ他の徳目は3カ条なのに、「礼」だけ5カ条あるのか?
 (3) なぜ「信」が儒教の五徳では最下位なのに、「義」や「智」よりも上位におかれているのか。
 (4) なぜ他の徳目は最初の条が総論となってるのに、「智」だけ総論が最後の第17条に置かれているのか?

 これらの疑問に迫っていくことで、太子が何をどう目指されたのかが、明らかになってきます。


■5.(1) なぜ「仁」ではなく、「和」なのか?

「仁」は日本語では「思いやり」という言葉がぴったりでしょう。一人の人間として他者への思いやりを持つことは、道徳の第一歩です。一方、「和」は共同体の構成員が互いに思いやりを持っている状態と考えられます。「仁」が個人レベルの徳に対して、「和」は共同体レベルの徳なのです。したがって「和」は「仁」を含み、さらに高い次元の理想を表しています。

 「和をもって貴しとし」で始まる第一条を、太子はこう結ばれています。

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上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときは、則ち事理(こと)自(おの)ずから通ふ。何事か成らざらむ[坂本他、p181]
(上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。[宇治谷、p92])
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 互いに思いやりを持ちながら、議論をする時、物事の道理が明らかになっていき、それによってどんな課題も解決することができる、という強い信念を、太子はここで表明されているのです。

 私はここでの表現から、太子が小野臣妹子や秦河勝などと和気藹々と国政のあり方を議論している様を思い浮かべます。また日本神話でも、大勢の神々が集まって話し合う光景が何度か出てきます。

「和」とは、日本社会の伝統的な理想であり、また衆智を集める創造原理でもありました。太子は「和」の理想を十七条憲法の冒頭に置くことで、目指す国家の姿を鮮明に示されたのです。


■6.(2) なぜ「礼」が「義」の上位に置かれ、かつ他の徳目は3カ条なのに、「礼」だけ5カ条あるのか?

「礼」とは「仁すなわち思いやりを、行動で表したもの」とされています。その具体的内容として、第5条は裁判の公正、賄賂政治の禁止、第6条は善を勧め悪を正す、第7条は人材登用、第8条は職務精励と、行政にあたる官僚が守るべき姿勢を挙げています。

 当時の氏族中心の腐敗した政治を改めるためには、この4項目の具体的な行動規範が不可欠と太子は考えられたのでしょう。これらを総括して、総論の第4条では「民を治むる本はかならず礼にあり」としています。これで合計5カ条となっています。

 もう一つ、注目すべきは「百姓礼あるときは、国家おのずから治まる」とも指摘されている点です。儒教では「礼は庶人に下らず」と言って、人民には礼を期待していません。太子は百姓、すなわち人民にも礼を期待します。理想的な国家を作るには、人民の礼も不可欠だと考えられたからでしょう。東日本大震災で被災者の秩序ある行動が世界を驚かせましたが、それが一例です。


■7.(3) なぜ「信」が儒教の五徳では最下位なのに、「義」や「智」よりも上位におかれているのか。

「義」は何が正義かであり、「智」は何が真理かの洞察力です。しかし、太子は第10条でこう言われています。

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自分が聖人で、彼が必ず愚人ということもない。共に凡人なのだ。是非の理(ことわり)を誰が定めることができよう。お互いに賢人でもあり愚人でもあることは、端のない環(わ)のようなものだ。『宇治谷、p95]
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 政治上の争いは、互いに「自分こそが正しい、相手は愚か者だ」と考える姿勢から出てきます。太子は有力氏族どうしがこういう姿勢で争う光景を何度も目にされたことでしょう。現代でも共産主義が世界で1億人も殺したという惨劇は、この姿勢から出たものです。

 人間の愚かさを見つめる太子は、自分の「義」や「智」にのみ頼る姿勢では「和」は到底、実現しないと考えられたのでしょう。まずは互いを信じて、議論を尽くしていく、その「信」こそが、「義」や「智」よりも大事だと考えられたのです。


■8.(4) なぜ他の徳目は最初の条が主要な命題になっているのに、「智」だけ最後の第17条に置かれているのか?

 17条はこうあります。

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物事は独断で行ってはならない。必ず衆と論じ合うようにせよ。・・・多くの人々と相談し合えば、道理にかなったことを知り得る。[宇治谷、p97]
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 これは第1条の「上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう」に、そのまま繋がります。第十七条は円環のように、第一条に戻っていくのです。これが最終的に太子がもっとも主張したかったことでしょう。

 自分の経験に引き比べて考えてみますと、私はイタリアの現地法人社長として2百人、その子会社としてポーランドで千人、モロッコで5千人の製造会社を4年間預かっていました。その後、アメリカの現地法人の社長に転出し、アメリカ人1500人、メキシコの2万5千人の会社を見てきました。

 それぞれの会社で大きな利益を出すことが出来ましたが、私の社長方針は単純至極で、それぞれの部署に担当分野をよく知り、真剣に考えている人々がいるので、彼らととよく話し合い、「なるほど」と思ったアイデアに対しては「頑張れ」と励ます。そんなことばかりしていました。

 そうすると、それぞれの部門で一致団結して、驚くような成果を出してくれるのです。自分たちのアイデアを実践しようとする際の行動力はめざましいものがありますし、多少の欠陥は周囲で補うことができます。

 こういう経営スタイルを知らず知らずに実践していたのは、大学生の頃から折に触れて聖徳太子の文章に触れていたからかもしれません。聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉を社是にする会社が日本では一番多い、と聞いたことがあります。多くの経営者の方々が私と同じような経験をされているのでは、と想像します。


■8.聖徳太子は日本国の設計者

 梅原氏は太子の理想を「一オククーブ」下げて実現したのが、天智天皇大化の改新であり、さらにそれをもう一段オククープを下げて完全に現実化したのが、藤原不比等(ふひと)だったと指摘されています。[梅原4、p513』

 現代の我が国は、天皇を国家統合、国民統合の中心として、よくまとまった民主的法治国家です。この国のかたちは、聖徳太子が描いたプランによっているのです。梅原氏はこう結論づけます。

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 太子は大政治家であるとともに大学者、大文化人であったのである。 日本人がながい間、太子を超人的天才として尊敬したことはまちがっていなかったのである。・・・
  われわれは、 このはなはだ偉大にしてはなはだ悲劇的な太子の生涯に、あまりにも無知であったようである。[梅原4、p513]
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 我が国をもっともっと繁栄させるにも、あるいはより身近に自分の家庭、職場、企業を生き生きとさせるためにも、我々はもっと聖徳太子の肉声に耳を傾けなければならないようです。
(文責 伊勢雅臣)