tarobee8のブログ(戯言)

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佐渡金山の事実

2022年2月6日

伊勢雅臣のメルマガよおり

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■1.佐渡金山の朝鮮人労働者は「強制労働」ではない

 佐渡金山の世界遺産への申請に関して、例のごとく韓国から、「強制労働被害の現場」であるので撤回を求める、と横やりが入り、一部には見送りの意見も出ていましたが、岸田首相が一転して申請することを1月28日の記者会見で明らかにしました。

 今回、申請を見送ったら、韓国の言い分を認めることになってしまうわけで、そうなったら佐渡金山だけでなく、徴用工の問題全体について、国際的にも不利な立場に置かれたでしょう。こういう事なかれ主義が、どれほど韓国を増長させ、日本の国際的名誉を傷つけてきたのか、を理解する人が、政府、官僚、自民党内でも、ようやく大勢を占めてきたのなら嬉しいことです。

 韓国の横やりに関しては、西岡力モラロジー道徳教育財団教授が、史実で簡潔明快に否定しています。

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39年から行われた戦時動員で合計1519人の朝鮮人労働者が佐渡金山で働いた(平井栄一編『佐渡鉱山史』)。うち66%にあたる1005人は佐渡鉱業所の募集担当者が現地で行った「募集」に応じた者たちだ。[西岡]
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 残りは「官斡旋」および「徴用」と思われますが、「徴用」にしても日本人にも適用された「戦時労働動員」で、戦前に日本も加盟していた「強制労働に関する条約」では戦時労働動員は国際法違反の「強制労働」に含まれない、と明記されていました。

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終戦時には1096人が残っていたが、45年12月までに数人の佐渡在留希望者以外全員が帰還した(『佐渡相川の歴史』)。
最近、韓国マスコミはきちんと賃金をもらっていなかった証拠だとして鉱業所が49年2月25日に朝鮮人労働者1140人に対する未払い金として23万1059円59銭を供託していた記録が見つかったと大きく報じた。しかし、これは反対に待遇がよかった証拠だ。[西岡]
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 当時の朝鮮人労働者の賃金は月120円程度で、この供託金は一人あたり202円、2ヶ月分未満です。戦後の混乱の中で未払い賃金を供託し、請求があったらすぐに払えるようにしていたのです。

 こういう史実をきちんと説明すれば、「強制労働」などという韓国の主張が言いがかりであることは、国際社会で証明できるはずです。反日のためには史実無視の韓国政府は別としても。


■2.佐渡金山の世界遺産としての価値

 韓国側の横やりは別にして、日本国民としては、佐渡金山の世界遺産としての価値をよく理解しなければなりません。それによって世界遺産登録を後押しする国民的機運を醸成することができ、また日本国民自身が自らの歴史をより深く理解できるからです。

 世界遺産の評価基準には10項目ありますが、佐渡金山は第3項と第4項に該当するものとして申請されています。

 第3項は「ある文化的伝統または文明の存在を伝承する物証としての無二の存在(少なくとも希有な存在)である」、第4項は「歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である」。まとめると「人類の歴史を物語る貴重な物証」ということでしょう。

 佐渡金山がこの評価基準を十二分に満たしていることは、下記の専門家たちの言葉からも明らかです。

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(萩原三男・帝京大学大学院教授)佐渡金山は・・・文献上明らかになっているだけでも400年以上の歴史があり、これだけ長期にわたり様々な技術を導入しながら続いてきた金山は世界にも例がありません。この間に採掘された鉱石は1500万トン、金78トン、銀2330トンを産出し、坑道の総延長は約400キロに達しています。[五十嵐、p49]
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■3.「これだけ長期間にわたる金鉱山がよくわかる場所は珍しい」

 規模と歴史の長さだけではありません。遺跡の価値としても、次のように指摘されています。

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(西村幸夫・東京大学教授)他の国にも鉱山はたくさんありますが、大半は同じ所で堀り続けているため、古い鉱山を壊しながら発展していきますが、佐渡では時代ごとに徐々に場所を変えたため、初期の砂金から露頭堀りへ、さらに人間による坑道堀りから機械によって大規模に掘るという変遷を示す遺構がよく残っていて、400年以上にわたる流れを見ることができるわけです。
国際的にも、これだけ長期間にわたる金鉱山がよくわかる場所は珍しいと評価されています。[五十嵐、55]
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 さらに、歴史的史料価値を高めるものとして「佐渡金銀山絵巻」があります。100年以上に渡って100巻以上が制作され、その時々の新技術の導入や経営の変遷が描かれています。これらは江戸から赴任してくる佐渡奉行への説明用に、奉行所の絵画師が描いたものです。[五十嵐、85]

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(渡部浩二・新潟県立歴史博物館主任研究員)佐渡金銀山絵巻のように、100年以上にもわたる鉱山の経営や技術をビジュアルに追える史料が残されている鉱山は世界にも類例がない。[五十嵐、p96]
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 金や銀などの貴金属は先史時代から世界各地で装飾品や貨幣として用いられてきました。それを追い求めるという人類普遍かつ永遠のテーマに関する、世界で最大級、かつ最長、最良の歴史遺産が佐渡金山なのです。これを世界遺産として共有することは、日本国民の義務とさえ言えるでしょう。


■4.平安末期の『今昔物語集』に登場

 佐渡金山の歴史を概観してみましょう。上記の専門家の意見が過大な評価ではないことが納得できます。

 佐渡金山が最初に登場する文献は、平安時代末期、1120年代に成立したとみられる『今昔物語集』です。巻26-15に能登国司佐渡に人を使わして、金を採集させた話が出てきます。

 室町時代、1434年に佐渡流罪となった世阿弥は『風姿花伝』などの著書を持つ能の大成者です。その世阿弥が著書『金島書』の中で、佐渡を「金(こがね)の島」と書き記しています。しかし、この頃は川底などに堆積していた砂金「川金」や、それが川岸や山野に取り残された「柴金」を採っていたものと思われます。

 1542年、上杉謙信がまだ幼い頃ですが、越後国の商人が佐渡で鶴子(つるし)銀山を発見しました。沖合から見ると山が光っており、上陸して調べたら銀が出た。そこで、その商人は許可を得て銀を採掘し、税として1か月に銀100枚を領主へ納めたと伝えられています。今でも現地では、地表から銀を採掘した無数の露頭掘りの跡を見ることができます。[佐渡市、「鶴子銀山」]

 前述の「文献上明らかになっているだけでも400年以上の歴史」というのは、この1542年の鶴子銀山の発見からでしょうが、『今昔物語集』から数えれば900年もの歴史があります。


■5.大鉱山都市の出現

 1601年、鶴子銀山の山師3人が数キロ北の山向こうで佐渡金山を発見しました。ここで露頭堀りにより山が真っ二つに割れているのが、佐渡金山のシンボル「道遊(どうゆう)の割戸(わりと)」です。山頂は江戸時代の手堀り跡ですが、下部は明治以降、西洋技術を導入して大規模に採掘され、昭和まで続けられました。割戸の幅は約30m、深さは約74mです。

 この頃には、鶴子銀山で、当時の最先端技術である「横相(よこあい)」による坑道掘りの技術が導入されていました。これは鉱脈が東西に走っている場合、南北に水平坑道を掘り、鉱脈に突き当たると左右に採掘するという工法です。

 佐渡金山が発見された1601年、徳川家康によって佐渡江戸幕府の直轄領となり、この頃、佐渡代官として派遣された田中清六は、誰でもどこでも自由に試掘を行うことを許しました。一攫千金を夢見て、山師や金穿(ほ)りたちが押し寄せ、空前の「ゴールド・シルバー・ラッシュ」がもたらされました。

 1621年、近くの村、相川で小判の製造も開始されます。鉱石の採掘から、金銀の抽出、そして小判の製造まで、一貫して相川の鉱山域で行うという、世界的にもほとんど例のない金生産システムが確立されたのです。

 相川はもともと10数戸の村でしたが、人口3万5千人、寺130を数える大鉱山都市に成長しました。1622年の頃、1年間に佐渡に運び込まれる商品の総額は20万両を超え、これは大きな大名の城下町に匹敵する規模でした。

 しかし、相川は城下町とは違って、関西や江戸から集まった商人たち、関ヶ原で主君を失った浪人たち、北陸沿岸諸国から集まった鉱夫たちからなる、開放的で庶民が大きな購買力をもった町でした[田中、p47]。

 寺が多いのは、各地の移住者が故郷の僧を招いて建立したからです。生国を離れて佐渡に渡った人々のフロンティア・スピリットとともに、故郷を偲ぶ望郷の思いが窺われます。


■6.「誠に神業として驚嘆する外ない」

 1600年代の後半に入ると、構内の採掘現場が地中深くなり、坑内の排水が課題となります。地下からの湧水や洪水で流れ込む外部の水です。山師たちはいろいろな排水器具を導入して対応しますが、排水に多額の費用がかかるようになり、経営は次第に圧迫されていきます。

 ここで奉行の萩原重秀は、元禄4(1691)年から5年を費やし、多額の投資をして、金銀山の地下から海岸付近までの全長1キロにおよぶ排水坑道「南沢疎水」を堀削しました。これにより、水没していた坑道での採掘が可能になりました。国中の者が「鼓舞して万歳を唱ふ」(『佐渡年代記』)と喜びました。

 この南沢疎水は工期を短縮するために、始点と終点から掘り進めるのと同時に、中間に2カ所、縦穴を下ろし地中の予定ルートに辿り着くと、そこからもルートに沿って前後に掘る、という6カ所並行の堀削工事を行いました。それらが予定の地下地点でピタリと出会うのです。

 この工事を成し遂げるには、地下内部の距離、方向、傾斜、深度を正確に測定する必要があります。その「縄引き」(測量)を指揮したのが、与右衛門という算学者でした。この工事について、ある専門家は次のように述べています。

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(この工法は)当時の測量機械および技術上から考えて、ほとんど不可能に近い離れ業と思う。その困難な仕事を遂行して、完全にその目的を達したことは、誠に神業として驚嘆する外ない。[磯部、p381]
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 与右衛門は、南蛮人(スペインやポルトガル)から天文学などを学んだ人物の孫弟子にあたりますが、外来の技術を学びながら、それを高度に応用して「神業」を成し遂げる、そこに強靱な主体性を感じます。


■7.「掘り続けた職人たちの姿」を思えば

 総延長400キロの坑道には、人間が一人だけ、四つん這いになってようやく入れる小さい坑道もたくさんあります。そういう坑道に入った体験を、田中圭一氏が著書『佐渡金山』で記しています。

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 その日、私は鉱山で厳重な身支度をした。背中に電池を背負うと頭の上にライトがつく。膝にはサポーターをつけてもらい、手袋をして、そのほかに酸素の測定器なども持たされた。

 身をかがめて入ると、もう長い年月人気(ひとけ)を知らない坑道の中の空気が湿って、冷ややかであった。四つんばいになり、赤ん坊が這うのと同じ格好して前へ進む。
5分、10分と時間が経つと、まず出口がわからなくなりはしないかと心配になってくる。途中で何本も枝のように別れた坑道を、果たしてうまいこと帰りつけるか、もし後ろに岩が落ちてきて通路を塞いでしまったらどうする。[田中、p265]
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 こういう坑道を含め、鉱夫たちは総計400キロメートルも掘り進めたのです。江戸時代の絵巻を見ると、フンドシ一本の若い鉱夫が数人、頬被りをして槌(つち)を振るっています。近くには「不動明王」などと書いた木札が立ち、安全を祈願しています。

 岩盤が崩れ落ちて、坑道が埋まることもしばしばあったようです。こんな歌が伝えられています。

 娘ようきけ 大工の嬶(かかあ)は 岩がどんとくりゃ 若後家よ
 (娘よく聞け、鉱夫の妻は、岩が崩れ落ちたら、若未亡人)

 死と隣り合わせの作業の合間に、鉱夫たちが坑道の壁に花や鳥を彫りつけた跡が、あちこちに残っているそうです。葉をつけた桃や観音様などを見たという証言が残されています。死と隣り合わせの作業の合間に、鉱夫たちは、どんな思いで、こららを彫ったのでしょうか?

 五十嵐敬喜・元法政大学教授(現・日本景観学会会長は次のように述べています。

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 ・・・「道遊の割戸」などを見ると、私はそこを掘り続けた職人たちの姿、その偉大性、困難性、勇気、闘志などなどいろいろなことが「想像」され、深く感動します。「割戸」は鉱山の技術の跡という物質的なものですが、同時に極めて人間的な営みの証拠でもあって、それが「文化」なのでしょう。[五十嵐、p54]
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 こういう感動を多くの日本人、そして世界の人々と共有するためにも、世界遺産登録が重要なのです。
(文責 伊勢雅臣)