後三条天皇と武士の台頭まで

2022年2月10日

藤原氏による摂関時代を終わらせたのは後三条天皇です。母が藤原家の女性ではなく内親王であったために、摂関家から
疎まれます。後一条天皇の弟の後朱雀天皇の第2皇子で、父の即位に伴い親王宣下を受けた。尊仁親王です。
先の関白の藤原頼通と現関白の藤原教通兄弟は時の天皇たちに娘たちを嫁がせたが、男子が生まれず。
それで尊仁親王後冷泉天皇から譲位されて後三条天皇として即位した。後三条天皇は自分を疎んだ輩に報復人事はせずに、頼通と教通兄弟の
仲裁に入って、次期関白を誰にするのか争っているのを仲裁して、摂政・関白になれる家柄を決めた。
そして、それまで天皇の認可が必要な荘園を藤原氏が手続きを省略して勝手に摂関家の荘園にしていたが、
専門の役所を作って正式な手続きを経ていない荘園は天領として没収した。
摂政や関白になれる家柄はまだ藤原北家だったが、後に藤原北家からの主流の家柄であるのは相違ないが、九条家
近衛家摂関家になれる家柄とした。後に、九条家からは一条家二条家が派生して、近衛家からは鷹司家が派生している。五摂家と言う。
自分を疎んだ輩に報復人事をせずに、摂関家のもめ事を解決して、摂関家の不正な荘園を没収して天領にした事により、
天皇の威信を著しく回復した。その他色々な事をやってのけた。こうして藤原摂関家は弱体化して、天皇家の権威が回復した。
即位4年後に第1皇子の貞仁親王に譲位して太上天皇になり、貞仁親王白河天皇になり、白河天皇の母が藤原家の女性であったために
摂関家の横暴が復活するのを用心して院政を敷こうとしたが、病に倒れて40歳で崩御した。
白河天皇は「摂関家の恐ろしき事は外祖父なり。が、予は何とも思わぬぞ」と摂関家を無視した。

後三条天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87

白河天皇は貞仁親王が即位した名前で、後三条天皇が回復した天皇の権威をさらに著しく回復した。荘園整理令をさらに推し進めて
摂関家の勢力を削いでいった。そして早くに退位して、母の反対を押し切って善仁親王を即位させて堀河天皇にした。
そして自分は天皇の父として後見人として院政を敷いた。太上天皇になり(要するに上皇)自分が政治のトップに立った。
摂関家は名目だけの存在になった。堀河天皇が亡くなり、その子の皇子を即位させて鳥羽天皇になった。白河上皇鳥羽天皇
祖父として院政をさらに強固なものにした。白川上皇は女好きであちこちの女性に手を出してはご落胤がたくさんいるようだ。
出家して法皇になっても権力は握っていて、さらに強固なものになっていた。鳥羽天皇には自分が身ごもらせた女性を妻として
押し付けて生まれて来たのが、後の崇徳天皇上皇)です。白河院は凄いワンマンで摂関家など問題外。自分の思い通りの
政治を行った。鳥羽天皇は祖父の白河院には相当泣かされている。白河院祇園女御を寵愛していて、貴族たちは後白河院
ご機嫌を取るために祇園女御のご機嫌を取っていたほどだ。また白河院上皇直属のエリート武士の「北面の武士」を設立している。
伊勢平氏の傍流の平正盛祇園女御に取り入って色々と便宜を図り、北面の武士にしてもらい、厚遇されていた。
当時は身分の低い武士でありながら各国の国司に任じてもらい、その収入でさらに祇園女御後白河院に取り入って出世をしている。
兎に角、白河院は当時としても滅茶苦茶な政治を行い、一時は冷遇されていた源義家を取り立てている。貴族たちからは
白河院のご機嫌を損ねたら出世に響くのでみなご機嫌取りに躍起になっていた。
祇園女御の妹にも手を出して自分の子を身ごもっているのを知っていてお気に入りの平正盛の息子の平忠盛に妻として押し付けて
産まれて来たのが「平清盛」だと公然の秘密になっていた。
また熊野詣が好きで孫の鳥羽天皇と共に何回も熊野詣をしている。
武士が政治の世界に進出で来たのも白河院の政治があったからです。出家して法皇になってからも実権を握っていて、女性関係も
派手だった。それまでは出家して法皇になると政治権力が無くなっていたが、白河院がそういった慣例を覆した。
鳥羽天皇を退位させて息子?(白河院の息子が本当らしい)の崇徳天皇が即位している。
そして崇徳天皇の時も法皇上皇が出家したら法皇になる)として院政を敷き、43年間も院政を敷いて77歳で崩御した。

白川天皇上皇法皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87


鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、1103年2月24日〈康和5年1月16日〉- 1156年7月20日〈保元元年7月2日〉[1])は、日本の第74代天皇
(在位: 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉- 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉)。諱は宗仁(むねひと)。

堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇近衛天皇後白河天皇の3代28年にわたり院政を敷いた。
鳥羽天皇は長らく白河院によって傀儡になっていて、上皇になっていたが、実権はなく、白河院が亡くなって、白河院の事を全否定する
事から政治を始めた。崇徳天皇の事を「おじ子」と呼んで嫌っていた。
白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を天承元年(1131年)に呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。
また、白河法皇の側近であった藤原長実・家保兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固める[注釈 1][注釈 2]。有力な院司として、藤原顕頼藤原家成がいる。
また、伊勢平氏平忠盛の内昇殿をゆるし、政権に近づけた。さらに白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、長承2年(1133年)頃より藤原得子(美福門院)を寵愛した。

永治元年(1141年)、23歳であった崇徳天皇を譲位させ、得子所生の第九皇子・体仁親王近衛天皇)を3歳で即位させた。

康治元年(1142年)、東大寺戒壇院で受戒し、法皇となる。

久寿2年(1155年)、近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王後白河天皇)を即位させた。これにより崇徳上皇院政を敷く可能性は失われる
。間もなく病に力を奪われ力尽きるが、この後白河天皇即位が保元の乱が勃発する原因となった。崇徳上皇鳥羽法皇により自分が院政を握れないようにされていて
いつかは自分が自分の子供を天皇にしてその上皇として院政を敷こうと考えていた。

鳥羽天皇上皇法皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87


源義家の死後、跡取り息子の義忠が暗殺されて、犯人は弟の義綱と分かった。同じころに義家の子で対馬守になった源良親(みなもとのよしちか)が理由もなく
人々を殺しまくり、解任されて隠岐の島に流罪になった。が、島を脱出して出雲の国で大暴れをしたりしていた。
義家はこう言う事もあろうかと、義親の子の為義を事前に義忠の養子にしていた。
朝廷は義綱討伐を為義に命じて、義親討伐を平正盛に命じた。為義の礼儀作法が幼稚で義親討伐に向かわせると行く先々で各国の国司と争いになるからと
平正盛に義親討伐を命じている。正盛は見事に義親の首を取り都に凱旋している。が、後に死んだはずの義親が現れたり義親と名乗る者同士が
争ったりと本当に正盛が義親を成敗したのかは不明であるが、その頃は正盛の朝廷での地位は確率されていたので影響はなかった。
正盛は義親の首を高々と吊るして京に凱旋して貴族たちや京の民衆たちに華々しくアピールしている。さすがに要領のいい貞盛の血筋を引いている
だけあって、実際の功績以上に見せるのが上手かったようだ。
一方、為義は義綱親子の討伐に向かい打ち負かして、義綱は出家して、義綱の子は全員斬首した。
義家の四男の義国も乱暴者で悪名高かった。河内源氏はこのように一族同士の争いが絶えなくて衰退していった。
義家のもう1人の弟の義光は甲斐守になり赴任して任期が終わっても京には帰らずに4人の息子たちに甲斐の国の各々の荘に住まわせて各々の荘の名前を
姓にさせている。甲斐源氏と言う。この中で有名なのが武田家である。
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なお、平正盛はウィペディアでは次のように記されている。
白河上皇院政に伊賀の所領を寄進するなどして重用され、検非違使・追捕使として諸国の盗賊を討伐するなどして活動した。
反乱を起こした源義親を討つ命令が父親の源義家に下るが、義家が死去したため、その後継者である義忠に義親討伐の命令が下る。しかし義忠は兄を討てないと躊躇したため、
義忠の舅である正盛が代わりに討伐に向かい、天仁元年(1108年)に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。その功績により但馬守に叙任。後、天永元年(1110年)丹後守、
永久元年(1113年)備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明であり、この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、
史上に痕跡を残した。当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて、疑問があったことは中御門宗忠の日記『中右記
などにも記されている。保安元年(1120年)讃岐守。
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正盛は伊勢平氏の傍流であったが、白河院に近づくために白河院が寵愛している祇園女御に取り入って、結果は白河院に引き立てられて各国の国司
歴任して、いる。義親討伐を命じられたのも武勇が源氏に比べて劣っていたから、箔を付けさせるために正盛を追捕使に命じたのが本当だ。また
白河院が創設した上皇直属のエリート武士の北面の武士に任じられている。
この当時、武士は貴族と主従関係を結んでいて、正盛が主人であった貴族たちが白河院の側近に当たっていたために正盛は上手く出世コースに
乗る事が出来たのも事実です。
また正盛は源義忠の舅にも当たります。
正盛のお陰で伊勢平氏の名前が上がり、朝廷に重用されるようになる。そして息子の忠盛の代になるとさらに飛躍して行った。


平正盛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E7%9B%9B


平忠盛は1096年生まれで、平正盛の嫡男で、義理の兄には源義忠がいる。忠盛の烏帽子親は義忠である。
13歳で左衛門小尉になり、1113年に盗賊の夏焼大夫を追捕して従五位下に叙せられている。父と共に興福寺の宗徒の強訴を阻止している。
また父に続いて祇園女御に取り入って、検非違使尉から伯耆守になっている。右馬権頭(うまのごんのかみ)も兼任する。
また父と同じく北面の武士に任じられている。
1120年には越前守になっており、在任中に越前国敦賀郡で殺人事件が起こり、犯人の日吉社神人を逮捕して検非違使に引き渡す途中で、
延暦寺の悪僧が犯人の身柄を奪取するという事件が発生する。朝廷が悪僧を捕らえたことで延暦寺の強訴に発展するが、白河法皇は忠盛を擁護した。
この頃に院の昇殿を許され、藤原宗子池禅尼)を正室とする。
その前に、白河院祇園女御の妹に自分の子を懐妊させていて、知っていて忠盛の嫁に押し付けている。そして生まれてきた子が平清盛だと言う
のが公然の秘密だ。清盛の母は産後の日達が悪くて亡くなり、清盛は祇園女御に預けられて長じてから忠盛の元に返されている。
正室の宗子との間には家盛や頼盛など数名の男子と女子がいる。
1127年、従四位下になり備前守になっている。佐馬権頭(さまのごんのかみ)も兼任している。院の牛馬の管理を行う院御厩司となっている。
1129年には山陽道南海道の海賊追討使に任じられている。それから間もなく同年7月7日に白河院崩御している。忠盛は白河院の葬儀で
他の近臣と共に入棺役を務めている。
白河院の死後は鳥羽上皇院政を敷き、白河法皇のやってきた事を否定し始めた。それまでの近臣は遠ざけられた者もいる。
が、忠盛は鳥羽上皇にも気に入られていて、すぐに官位は正四位下に昇っている。また引き続き北面の武士にもなっている。
白河法皇崩御して程なく、死んだと思われていた源義親を名乗る者が京に出現して藤原忠実の邸に保護されていたが、何者かに襲撃され殺害されると
いう事件が起こる。忠盛にも嫌疑がかけられたが、真犯人が美濃源氏源光信と判明したことで事無きを得た。
天承2年(1132年)、上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。その功績により内昇殿(清涼殿=天皇の家への昇殿)を許可された。
平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たちが杜預の灯りの節会で闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって防ぎ、
鳥羽上皇から賞される。実はこの時に忠盛は木刀を帰る時に下級役人に預けている。後日、貴族たちが「忠盛は禁じられている刀を持って昇殿した」と訴えたが、忠盛は
実情を話して、後鳥羽上皇がその木刀を取り寄せて、皆の前で見せて、貴族たちは大恥をかいてしまった。
清涼殿への昇殿は院の昇殿と違い格が遥かに上であった。武士としては源頼光清和源氏の開祖の経基の孫)が最初だが、武士としては異例の大出世のために
貴族たちは色々と嫌がらせをした。
また院の荘園の管理も任されるようになった。また当時、宗との密貿易が盛んで朝廷は太宰府以外での宗との貿易は禁止したが、みな守らずに鎮西(九州の
当時の呼び名)や西日本の至る所に自分の領地を持ち、そうの船を引き入れてはの密貿易が盛んに行われていた。忠盛は越前守の時から宗との貿易を行っており
莫大な利益を上げていた。また1135年に中務大輔(なかつかさのだいふ)に任じられている。中務省は8省の中でも1番格上だった。
日宋貿易に乗じて瀬戸内海には海賊が頻繁に出没するようになっており、海賊討伐に忠盛か為義のいずれかを任じようかとしていたが、忠盛が海賊討伐を
勝ち取った。1135年8月、日高禅師を始めとした海賊70名を捕えて京に凱旋した。その中には海賊でない者も含まれていて、忠盛の屋敷に海賊が匿われている
と訴えられている。が、鳥羽院はお咎めなしとしている。忠盛は捉えた海賊を後日釈放して、自分の家人にしている。平家が自前で水軍を持つようになった
のは忠盛のこう言った事から組織化している。
後年、美作守になり、1139年には興福寺の衆徒が強訴を起こした際には宇治に出動して入京を阻止している。1144年には正四位上に官位が昇り、尾張守となった。
その間にも忠盛は貴族たちとも徐々に親しくなって行き、藤原忠隆の子の忠教は忠盛の娘を妻に迎えている。
忠隆の妻・栄子は崇徳上皇の乳母であり、忠盛の妻・宗子は崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だった。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳上皇を中心に
展開していた。忠盛自身も和歌に通じ、たびたび崇徳主催の歌会に参加した。崇徳にとって忠盛はもっとも頼りにできる人物だった。
なお崇徳上皇鳥羽上皇の息子と言う事になっているが、実は白河法皇が自分の子を身ごもらせた女性を孫の鳥羽天皇(当時)に押し付けて生まれて来たのが
後の崇徳天皇だった。なので、鳥羽上皇は崇徳の事を「おじ子」と呼んで忌み嫌っていた。
1146年に播磨守に任じられている。播磨守は当時、国司としては最高峰の地位であった。
1147年、息子の清盛が祇園社に舞を奉納しに行くと神子に止められて清盛の郎党が神子と小競り合いになり多数の死傷者が出た。忠盛と清盛はすぐに下手人を
検非違使庁に引き渡すが、祇園社の本寺である延暦寺は納得せずに、忠盛と清盛の流罪を求めた。法皇になっていた鳥羽院延暦寺の訴えを退けて忠盛と清盛は
銅をいくらか収める罰金刑で済んでいる。忠盛は伊勢の自領を祇園社に寄進して関係修復を図っている。
1149年には忠隆の後任として内蔵頭(くろうどのとう=天皇の司書の長官)になった。同年の3月に長男の家盛が熊野詣の途中で病死している。
家盛は従四位下になろ佐馬助になっていて、清盛の昇進を追いかけていた。
1151年には刑部卿(ぎょうぶきょう=刑部省の長官)になっている。藤原頼長(後に崇徳上皇に付いて保元の乱の首謀者になっている)は鳥羽院に意見を
求められて「生まれは卑しいものの、正四位上・内蔵頭・播磨守を歴任しているので問題はない」と答えている。
1153年についに公卿になる夢は叶わずに58歳で病死した。頼長は「数国の吏を経て、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人に優れ、人となり恭倹、未だかつて
奢侈の行いあらず、時人これを惜しむ」とその死を追悼している。
忠盛の時代に伊勢平氏は武士であるながら殿上人と言う上流貴族にもなり、最初は忌み嫌われたが、その人柄によって貴族たちからも愛されるようになり、
こうして伊勢平氏は貴族たちからは愛される存在になっていた。
一方、河内源氏の報は為義は従五位下で左衛門大尉のままであった。
この後、崇徳上皇後白河天皇の2つの勢力に朝廷は二分されて、保元の乱へと向かって行くのであった。
いよいよ武力による決着をすると言う事になり、武士の世が見えて来る。

平忠盛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%9B