tarobee8のブログ(戯言)

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保元・平治の乱

2022年2月11日

白河天皇は父の後三条天皇(母親は内親王で久々の外戚のいない天皇藤原北家の専横に怒り、天皇の威信を回復させた)の意思を継いで、
天皇の権威を大いに回復させ藤原摂関家の弱体化に努めた。堀河天皇に譲位し、上皇になって院政を敷き摂政・関白を無意味同然化させた。
大変なワンマン政治家で誰も逆らえない。が、女癖が悪い。あちこちの女性に手を出し、落とし子が多かった。清盛もその一人と言う説もある。
養女として迎えた後の待賢門院にも手をつけて懐妊させた。わが孫の鳥羽天皇堀河天皇の子)に妻として押し付けた。
結婚してあまりに早く出産したので不審に思った。その子が白河上皇の意向で崇徳天皇になった。その後、後の後白河、近衛天皇なる皇子が生まれた。
白河上皇の死後、鳥羽上皇崇徳天皇を退位させて絶対に自分の息子である美福門院との間に生まれた近衛天皇を即位させた。が、近衛天皇は早死にした。
後白河はボンクラ息子であった。が、鳥羽上皇後白河天皇を即位させた。崇徳上皇としては面白くなかった。出来の悪い後白河でなくて
自分が天皇に復位するか自分の息子を天皇にと望んでいたのだった。鳥羽上皇が亡くなると、一気に争いに発展。崇徳上皇は後白河に譲位を迫り、
摂関家左大臣藤原頼長らが付いて兵を集めた。後白河も対抗して兵を挙げた。摂関家の頼長の兄の関白・太政大臣の忠通も味方につけた。
源氏や平氏やその他の武士も両陣営に身内同士なのに分かれて戦う破目になった。天皇家摂関家・武士(主に源氏と平家)が内部分裂しての争いとなった。
1156年の事だった。保元の乱と言う。実は鳥羽上皇はこのような事があるのを予測していて、後白河に付く武士の名を書き記していた。そこには清盛の名前はなかった。
が、意を通じていた美福門院の一声で後白河側に付く事になった。清盛の弟の頼盛は崇徳上皇に付こうとしたが、池の禅尼が崇徳上皇の敗北を予測して
清盛に従うように進言して、従っている。
崇徳側についた源為朝らの「即刻夜襲を仕掛けるべき」との進言を頼長は「天下を決する戦で夜襲のような事はしてはならない」退け、為朝は天を仰いだ。
それが原因で崇徳側は敗れることになる。2つの陣営を合わせても兵1000人余りの戦い。後白河側は夜襲を仕掛けてきた。合戦が始まると崇徳側が優勢。
為朝の弓勢はすざましくて、清盛の部下の兄弟2人が1本の竹の矢で鎧を貫いて2人とも即死している。重盛は為朝の矢面に立ち、突っ込もうとするが、
清盛は「いざらる事はするな」と止めて他の門に攻撃目標を変えていいる。為朝の前に義朝が来て、為朝は義朝の兜の上を矢で突き飛ばしたが、
「実の兄はよう殺せぬ」とあきらめている。他の武者たちは為朝の矢に当たって多くが亡くなっている。
このままでは負けると悟った後白河側の源義朝平清盛は焼き討ちを奏上し、藤原信西の鶴の一声で焼き討ちして後白河側が大逆転勝利した。
信西後白河天皇の乳母夫(めのと=乳母の夫)で身分は少納言までで昇進出来なかったが、鳥羽上皇後白河天皇からは絶大な信頼を得ていた。
逃げ延びた者は潜伏していたが、やがて信西の策略で罪を減ずるから出てくるように呼びかけ。が、大方が出頭してきたころあいを見て信西は賊軍に加わった者は
死罪という勅命を後白河に出させた。平氏では忠正ほか数名の清盛の叔父たちが斬首。源氏では義朝の一族とい行家らを除いてほとんどが斬首となった。
義朝は父の為義ほか兄弟の許しを乞うたが認められず。こうしてやっと復活の兆しが見え初めていた源氏の勢力は壊滅状態になった。
源為朝は逃げおおせていたが、病気になり臥せっているのを見つかり、捕まった。が、殺されずに、もう2度と弓を引かれないようにと手首の腱を切られて
八丈島流罪になっている。この為朝が後に島を抜け出して琉球に渡って琉球王朝を設立したと言うエピソードもあるが、真偽は定かでない。
この時、鎌倉にいてまだ乳飲み子だった義仲は義朝の長男・義平に殺されそうになる寸前に義朝の家人に見逃されて中原兼遠に抱えられ木曽に逃げ伸びた。
後白河は上皇になり息子の二条天皇が即位した。この後白河もなかなかの海千山千で有名だ。

保元の乱で生き残った源義朝は藤原信西のために父も兄弟もやむなく斬首して孤立していました。一応は正四位下・左馬頭に任じられて昇殿も許された。
が、国司などに任じられず所領がない。義朝は貴族たちに取り入る術を知らないで悶々。一方の平清盛正四位上大宰大弐大宰府の副長官)・播磨守になり
収入は義朝よりはるかに上。信西保元の乱の後を後白河上皇に託されて位は低いけれど絶大な権力を得ていました。信西と結んでいたのは平清盛です。
義朝は信西の息子を自分の娘の婿にしたいと頼みました。が、信西からは「私の息子は学者で武門の家には向いていない」と断った。
が、信西は別の息子を清盛の娘の婿にしてしまった。一方、藤原信頼という中納言がいて信西によって右大将という官職を欲していたのを妨害された。
こうして信西・清盛と信頼・義朝(二人とも信西憎しの思い)という派閥ができた。信西の事を嫌う貴族たちは大勢いた。親政派からも院政派からも
信西の勢力がいて信頼たちに協力している。
1159年の年末、清盛が当時の貴族社会で流行していた熊野詣でに出向いた。
ライバルがいないとなると信頼と義朝は一気にクーデターを起こし、信西一族を惨殺。二条天皇を捕捉し、後白河上皇も捕らえて院の書庫に幽閉した。
信頼はこうして望んでいた右大将に任じられた。義朝は念願の播磨守になり、嫡男の頼朝を従五位下・右兵衛権佐(うひょうへのごんのすけ)に任じてもらった。
頼信は横暴を極め、最初は反信西で応援していた反信西派の貴族たちからは猛反発。
紀伊の国の田辺でこの事を知った清盛は嫡男の重盛に「いかがしたものか?」と問うた。重盛は「熊野詣では来世の事を祈願するもの。今は現実に当たるべし」と。
清盛は義朝討伐を決意。熊野別当の淡海も加勢し、京の都に着く頃には諸国の武士も加わり数千の軍勢で六波羅に帰宅した。
そうして信頼に名簿を差し出し逆らわないという意向を示した。信頼はすっかり信用してしまう。が、清盛は貴族たちからは頼りにされている。
義朝とは遠縁の源頼政も最初は義朝に付いていたが、あまりの横暴ぶりに「このままでは末代までの恥になる」と清盛に味方する。貴族たちと計らい、
二条天皇は女装して脱出し清盛の館に逃げ込んだ。清盛亭は臨時の御所になった。後白河上皇も脱出して仁和寺に逃げ込んだ。
こうして清盛は一転して官軍。明けて1160年、平氏5000、源氏4000の争いが始まった。嫡男の重盛を大将に義朝に攻め入った。が、義朝の長男の義平は反撃。
重盛達をぐんぐん押し戻し、清盛亭まで攻めてきた。清盛は指揮を執りあらかじめ休ませていた兵を次々に繰り出して源氏軍を圧倒。
(一説では最初から義朝軍が清盛亭に攻めてきたとも言われています。)
ついに源氏軍は崩壊し蛛の子を散らすように逃げた。義平達は戦死。義朝は再起を期して坂東に逃げる途中、尾張で入浴中に殺された。
頼朝は平頼盛の家人の平宗清に捕らえられた。が、何故か殺さなかった。
清盛は頼朝を殺すつもりだった。が、身内から貴族たちから上皇から助命を嘆願された。清盛の義母の池の禅尼が強く助命を嘆願。
その子の(清盛の弟)頼盛も助命を強く嘆願。義朝の妾の常盤御前が3人の子を引き連れて出頭。そして体を投げ打ってわが子たちと頼朝の助命を嘆願。
上西門院や頼朝の母も助命嘆願。
清盛はしかたなく受けた。頼朝は伊豆の国流罪になった。伊東祐親が監視役になっていた。
これが後に大きな仇となって返って来るとは・・・。清盛はその後超スピード出世。7年後には従一位太政大臣までなった。
一門も次々と高位高官を独占。が、驕れる平家は久しからず・・・。
清盛はある意味で凄く寛容な人だったのです。それが後に仇になって返って来たのです。何事もほどほどに。