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奥州征伐

2022年2月22日

奥州征伐
1189年(文治5年)源頼朝(よりとも)が奥州平泉(ひらいずみ)藤原氏を征服した戦い。これによって、奥羽両国は鎌倉幕府支配下に属することとなり、
頼朝の全国制覇が完成した。征伐という一方的表現を避けて、「文治(ぶんじ)五年奥州合戦」とよぶこともある。この合戦の直接的原因は、
平泉に逃げ込んだ源義経(よしつね)の身柄引き渡しをめぐる対立にある。しかし、同年閏(うるう)4月義経が誅殺(ちゅうさつ)され、6月その首が鎌倉に届けられたのちにおいても
頼朝は平泉追及の手を緩めず、朝廷に対して藤原泰衡(やすひら)追討の宣旨(せんじ)を奏請。その宣下(せんげ)を待たずに、7月19日鎌倉を出発、遠征の途についた。
それに先だって2月に発せられた頼朝の動員令は南九州にまで及び、日本六十余州の軍勢、『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば28万4000騎
(ただし、諸人の郎従(ろうじゅう)、馬廻(うままわり)の歩卒(ほそつ)なども含む)が参集した。頼朝は全軍を三手に分けて、自らは中央軍を率いて北上、
8月1日阿津賀志山(あつかしやま)の防塁(福島県国見(くにみ)町)を抜き、8月12日多賀国府(たがこくふ)に入った。泰衡は国分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)(仙台市榴ヶ岡(つつじがおか))
大本営を捨て、平泉に火を放って、北に逃れた。頼朝の平泉入城は8月22日、泰衡が比内(ひない)郡贄柵(にえのさく)(秋田県大館(おおだて)市)で河田(かわだ)次郎に殺されたのは
9月3日であった。これにより源氏の長年の念願であった奥州の金の利権を得る事に成功した。
ただし、後白河法皇は頼朝が征夷大将軍でもないのに勝手に全国の武将を招集して奥州藤原氏を攻めて滅亡させたのに警戒して、自分が存命中は頼朝に征夷大将軍
任じなかったとも言われている。