tarobee8のブログ(戯言)

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頼朝の死

2022年2月23日

建久6年(1195年)3月、頼朝は東大寺再建供養に臨むため上洛。妻子を伴っての上洛は、娘の大姫(おおひめ)の入内工作を促進する持っていた。
しかし、大姫が亡くなった事により、入内の計画は実現する事無く終わった。頼朝は清盛と同じく娘を入内させて朝廷内での権力も得る事を
狙っていたようです。
その前後に、頼朝が鷹狩の途中で工藤兄弟の敵討ちがあり、危うく頼朝も襲われそうになります。何でも弟の範頼が、その前に御家人たちが
頼朝に対して不満を愚痴っていたのを頼朝に報告しなかった事に立腹して、関係者を出家させて、範頼は伊豆の修善寺に幽閉します。
頼朝が事件に巻き込まれた時に政子はその報を聞いて不安に思っていた時に、範頼が「姉上、大丈夫です。この範頼がおりますぞ」と
言った事に政子は不信感を抱いて帰宅した頼朝に話したのが、頼朝には気に入らなかったとか言う話もあります。
範頼が頼朝に許しを請う書状を書いた際に、署名に「源範頼」と書いている事に立腹して、嫡流でない者が源の姓を名乗る事は許されない。
別の姓を名乗るべきだと怒っていたそうです。そして、結局は範頼に対して刺客が送られて範頼と家来は寺に火を放って焼死しています。
焼けた遺体から首を取って頼朝は検分しています。

建久9年(1198年)の暮れ、頼朝は政子の妹の追福のために新造した相模川の橋の供養に参加している。しかしその帰路に謎の落馬をして
正治1年(1199年)1月13日に53歳で死去しました。死因は様々に推測されているが、不明となっています。
幕府の公式な目録であると言われる「吾妻鏡」は、何故か建久7年(1196年)と建久8年(1196年)2月までの記述が欠落しており、鎌倉幕府
創設者の死を正確に伝える記述はないとされている。

頼朝の後継者は長男の頼家になった。頼家の乳父(めのと)は比企能員(ひきよしかず)で、将軍の後見人として絶大な権力を振るう事になります。