tarobee8のブログ(戯言)

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安部清明

戯言たわごとの昔の記事に以下のような事が書いてありました。安部清明についてです。意外に出世が遅かったようです。

 

2006/7/16
「安部晴明」  歴史
安部清明といえば「陰陽師」として有名だ。コミックなどで若くてハンサムで聡明なイメージがある。が、実際はそうではなかったようだ。
東亜天文学会の天界956号に清明に関する記述がある。長谷川 一郎さんが紹介されています。高田義人著「安部清明の官暦」日本歴史、2004年9月号、吉川弘文館より。
あっしが分かりやすく手直ししてあります。

それによると、AD920年生まれで、1005年に数え年の86歳で没。960年は天文得業生(官位なし)。961年に陰陽師従七位上相当)、970年には陰陽小属(従八位下相当)。
よほどの事がない限り官位は下がりませんので、下の官職を兼任していたと思います。971年に天文博士正七位下相当)、985年に主計権助陰陽寮でなくて、主計寮の副長官代理で、
正六位下相当)を兼任。986年に従五位下に叙せられ(つまり貴族の仲間入りをしたのが数えで67歳)天文博士に再びなった。その後、993年に正五位下に叙せられ、
1001年に従四位下に叙せられた。1005年の暮れに数えの86歳で亡くなっている。つまり、紀貫之並みに遅咲きで長寿だ。父親が正四位下で大和守、大膳大夫だったのに比べて出世するのが
遅かった。
家柄からして、貴族たちの信任が厚かって厚遇されていたという話は胡散臭いと思う。それなら若くして、五位や四位に叙せられていたはずだから。
家柄にしては割と不遇ではなかったのかな?晩年になって貴族たちから厚遇されたのかも知れない。
なお紀貫之は59歳でやっと従五位下に叙せられ土佐守になりました。若い頃から宮廷歌人として出仕していたので早く出世できるかも?と目論んでいましたが、
藤原氏全盛時代のために、そうはいかなかったのです。「かぐや姫」は藤原氏に対する皮肉をこめて揶揄した物語です。作者は紀貫之ともその一族の誰かとも言われています。

なお陰陽寮は、「中務省」配下の小寮です。
陰陽頭(おんみょうのかみ、従五位下相当)がトップです。下の方の職になると官位はないものもあります。陰陽寮は天文関係と俗に言う陰陽道に分かれていました。
が、天文現象を注意深く観察していて現在はそれが天文学に寄与しています。また陰陽道とは風水のことであり、悪霊や鬼を追い払ったとかいうのはあくまでも後世の人が作ったものです。


2006/7/20
「安部清明part2」  歴史
7月16日に安部清明のことを書いたが、出世が遅くて986年から急に昇進している。ふと藤原道長(966年~1028年)と年代が重なっているので、調べてみた。
道長の父親の兼家が長らく不遇でいたのが急に昇進して、それに伴いわが子たち(道長は五男)も急に昇進している。奇しくも986年といえば、
兼家が謀略をもちいて一条天皇(兼家の娘の息子)を即位させて摂政になっている。兼家亡き後、道長の兄たちが次々に亡くなっているのも奇妙だ。
もし伝説どおり清明道長に重用されたというのが本当なら、前記の数件で何か関わりがあるのかも知れない。次々と政敵を押しのけ強引な手を使い
摂政、太政大臣になれたのも清明の助言があったのか?986年以降の道長清明の昇進が連動しているのもうなづける。若い頃の清明はあまりに切れすぎる頭脳が災いして、
貴族たちから恐れられて遠ざけられていたのかも知れない。