tarobee8のブログ(戯言)

PC版ではこのページの右下に年月別のアーカイブのリンクがあります。スマートフォンでPC版を見るには1番下にPC版と書いてありますので、ブラウザー別の設定方法を参照ください。

ロシア(旧ソ連)と西側諸国の複雑な歴史

ロシアと西側諸国の複雑な関係性の歴史についてフェイスブックに投稿がありました。

何故、西側のメディアは報道しないのでしょうか?

 

種田 光一朗

【総括】ロシアによるウクライナ軍事侵攻の真実とその背景
〜参考 : 欧州安全保障協力機構(OSCE)並びに国連軍事監視員による報告書〜
1.ロシアの戦略目的
  ロシアの軍事作戦の実際を見れば、プーチン大統領が何度も繰り返し表明しているように、ロシアの目的がウクライナの人々への攻撃や領土の征服でないことは明らかだ。事実、ロシアは今もウクライナへのガス供給を続けている。インターネットを遮断してもいない。発電所や水道も破壊していない。ロシアの目的がウクライナ征服だというなら、これは全く矛盾している。
  米国やNATOによる旧ユーゴやイラクリビアでの軍事侵攻の事例を見れば明らかなように、欧米諸国の戦略の基本は、民衆の生活に直結する水やエネルギーの供給などインフラ全体をまず破壊する。そうして巧みな情報操作で民衆が政府とその指導者に対して、反感を持ち内乱を起こすように仕向ける。そうすれば、軍事侵攻が民衆の抵抗なくよりスムーズに実行される。第二次世界大戦中、日本の主要都市が爆撃で焼き払われ、広島長崎に原爆が投下されたのもこの戦略に基づいている。一方、ロシアは全く異なる戦術を特徴としている。ロシアは戦略目標を明確に絞り込んで作戦を進める。
  2021年10月は、ウクライナ軍によるドンバス地方(独立宣言をしていたルハーンシク並びにドネツクの2つの共和国)に対する攻撃の最初の段階であった。その後ウクライナ軍の砲撃がさらに激しくなると、両共和国の当局は民間人をロシアに避難させ始めた。ロシアの外相セルゲイ·ラブロフはインタビューで、10万人以上の難民をロシアが受け入れたことに言及した。このウクライナ軍の行動がその後の事態展開の引き金となった。
  プーチンにとっては、この2つの共和国を助けるためだけに介入しようが、ウクライナ全土を攻撃しようが、欧米が大規模な制裁で対抗することは明確に認識していただろう。プーチンには2つの選択肢があった。1つは、ウクライナ軍の攻勢に対してロシア語圏のドンバス地方の2つの共和国を単純に助けること、もう1つは、ウクライナ全体を深く攻撃してその軍事能力を無力化することである。しかし、プーチンウクライナを占領したいとは言っていない。彼の目標はあくまで、ウクライナの非軍事化と非ナチ化である。
  明けて2022年2月21日、これまで内政問題として事態を静観していたプーチンは、ウクライナの攻撃に晒されていたドンバス地方の2つの共和国の独立を承認し、同日それぞれの共和国と友好協力条約を締結した。これにより国連憲章第51条を発動し、ロシア自身の自衛権と同共和国との集団的自衛権の枠組みで、2つの共和国を支援するための軍事的介入を行うことができる根拠を明確にした。そして、2つの共和国の要請に基づき、2月24日ロシア議会はウクライナの非軍事化を目的とした特別軍事活動を承認し、ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻が開始された。
  3月4日(金)、国連はウクライナ市民265人が死亡したと報告した。同日夕方、ロシア国防省は死者数を498人と発表した。これは、ウクライナの民間人よりもロシア軍の死傷者が多いことを意味する。これを見ても、ロシアの戦争目的が民衆や都市の制圧でないことが分かる。自国の軍隊を危険に晒しても戦略目標を重視している現れといえる。
  西側メディアは、この事実を確認していながら真実を伝えていない。メディアの主張は、プーチンが一方的に国際法を無視してウクライナを攻撃し、ロシア軍がすべてを破壊したがっている、と繰り返している。しかし実際には、NATOの軍事報告でも、プーチンは2022年2月中旬までウクライナを攻撃する意図が無かったことを示している。
  2021年3月24日、事態が動いた。ウクライナのゼレンスキー大統領がクリミア奪還の大統領令を発布し、ウクライナ南東部に軍隊を展開しこれを増強した。ゼレンスキーはなぜ、突然ロシアに対しこのような行動を起こしたのか。
  ウクライナ政府に対して、ロシアとの開戦圧力が米国からあったのは明らかだ。米国の真の狙いは、ドイツが提案しロシアが進めている新たな天然ガスパイプライン=Nord Stream IIの計画を阻止することだった。ウクライナがロシアを挑発しロシアが対戦姿勢を示せば、西側メディアを総動員してロシアを悪者に仕立て上げる。そうすれば、ドイツを含むNATOと西側諸国がロシア制裁に連携せずにはいられなくなる。その結果、“Nord Stream II”が凍結されることを狙ったと思われる。
  そして本年2月、ドイツのオラフ·ショルツ首相は、ワシントンを訪れた際に、バイデン大統領からロシアのウクライナ侵攻に連携して対抗するよう求められた。ショルツ氏は勿論反対したが、最終的に受け入れざるを得なかった。
  帰国後、ショルツ首相はこれまでの方針を覆し、突然軍備費を別途1000億ドル上積みし、国防費をGNPの2%とする法案をドイツ国会に提示し、無理やりこの法案を通した。ショルツ首相の突然の心変わりの理由には、米国のバイデン大統領が深く関わっていることは疑いの余地はない。
  エネルギー問題は、現在ドイツ経済のアキレス腱で、ロシアからの天然ガスの調達はドイツにとって死活問題なのだ。これに対し、米国のバイデンから何らかの条件提示があったことは明らかだろう。
  ではなぜ、米国はドイツとロシアの関係にここまで介入するのか? 欧州において、ドイツとロシアは2大勢力であり、この2カ国が緊密な関係を構築し連動することを米国は常に恐れてきた。これは、極東西太平洋地域において、日露、あるいは日中が米国抜きに緊密な関係構築をすることに米国が常に神経を尖らせ、これを阻止してきたのと全く同じ道理である。
  忘れてはならないのは、米国の核戦略には常に仮想敵国が必要だということだ。しかし、米国の戦場は自国ではない。対ロシア戦の場合、それは間違いなくヨーロッパになる。しかしその場合、欧州諸国と米国の利害は必ずしも一致しない。1980年代、ソ連がドイツの平和運動を支援したのもそのためだ。ドイツとロシアの関係が緊密化すれば、ドイツにとって米国の核の傘は無意味になる。
3.核保有国同士の対峙
  ロシアは、NATOとの間に距離を置いておきたいと考えている。NATOの力の本質は米国の核の抑止力である。フランスも英国も核を持っているが対ロシアでは桁が違いすぎる。NATOは現在、ポーランドルーマニアに、米国のMK-41発射システムを含むミサイルシステムを配備している。このランチャーからは核ミサイルを発射することもできる。
  このミサイルはモスクワまでほんの数分で飛んでいく。以前は、ABM(弾道ミサイル防衛条約)があり、ヨーロッパにそのようなシステムを配備することはできなかった。しかし現在、米国はこの条約を離脱している。
  この条約の意図は、互いに軍事的に対峙した場合、万一相手の行動を見誤り、即核の先制攻撃に出るようなミスを避けるための防御作でもあった。両陣営の核ミサイルの距離が離れていればいるほど、確認や反応する時間が稼げる。しかし、ロシア領土にNATOのミサイルを近づけすぎると、ロシアが攻撃された場合、対応する時間がなく即刻核戦争に突入してしまう危険性が高まる。
  このことを最も問題視し、現状改善を訴えきたのは米国ではなく、ロシアだ。この危機感からロシア(当時のソ連)は、NATOに対抗すべく東欧共産諸国連合でワルシャワ条約機構を結成した。NATOは1949年に結成され、ワルシャワ条約機構はその6年後の1955年に設立された。ワルシャワ条約機構がこの年に結成された最も大きな理由は、ドイツ(当時の西ドイツ)の再軍備とこの年のNATOへの加盟だった。
  1949年の地図を見ると、NATOの核戦力とソ連の核戦力の間に非常に大きな差があることがわかる。NATOがドイツを含めてロシアとの国境に迫ろうとすると、ロシアはワルシャワ条約で対抗した。
  この頃、東欧諸国はすべて共産主義だったので、それぞれの共産党支配下で結束した。ロシア(当時のソ連)は自国の周囲に安全保障の緩衝地帯を張り巡らせる目的でワルシャワ条約機構を創設した。NATOと隣接するこの安全ベルト地帯に要塞化された防衛施設を設置し、できるだけ通常戦で対応できるようにした。それは、核戦争を可能な限り回避するための処置でもあった。
  1991年にソ連が崩壊し冷戦体制が収束した後、この核戦略はしばらく忘れ去られていた。イラクアフガニスタンで米国が起こした戦争は全て通常兵器による戦争だったからだ。当然、相手が核保有国でなく軍事力に大きな開きがある場合、核戦略は無用だ。圧倒的な通常兵器の投入でことは決着する。しかし実際は、力にだけ頼った欧米の戦略なき戦争はテロという新たな脅威を生んでしまった。民衆を攻撃対象にした戦争は、正規軍同士の戦いでない民兵によるテロという新たな脅威を生み出した。軍服を着ていないテロリストは民衆と区別がつかない。そのため、戦争はさらに混沌とし罪のない民衆を巻き添えにした悲惨な虐殺と、その危険から逃れる多くの難民を生むこととなった。今、欧米社会が抱える難民問題は、第三国において欧米の「戦略なき戦争」が引き起こした当然の結果といえる。
  話をウクライナに戻すと、ロシアは圧倒的な核保有国である。ウクライナを支援している欧米陣営すなわちNATOも核を保有している。つまりウクライナ問題は、冷戦終結後に両陣営が直面する核戦争の最大の危機といえる。
  2月11日と12日にドイツのミュンヘン安全保障会議が開催され、これに参加したウクライナのゼレンスキーは核兵器保有を示唆した。この発言にクレムリンは即刻赤信号を灯し、プーチンは2月27日、核戦力の警戒レベルを最高位に移行させた。
  ここには、我々が理解しておくべき重要な経緯がある。1994年、東西両陣営はブダペスト協定なるものを結んだ。この協定は、旧ソ連邦の領土にあった核は全て破棄し、ロシアだけを核保有国として残すというものであった。そして、その対象となったウクライナは、自国領土の不可侵と引き換えにロシアに核兵器を全て引き渡した。しかし、2014年、ウクライナが併合していたクリミアがロシアに編入されるに至って、これを不服としたウクライナ政府はこのブタペスト協定の無効を言い出した。
  しかし、実際にはクリミアは1991年のウクライナ独立以前にすでに独立を宣言しており、また、クリミアは国民の総意によってウクライナでなくロシアへの編入を希望した訳で、ロシアが強引に奪取した訳ではない。ブタペスト協定の無効を宣言したゼレンスキーの今回の発言だけに、ロシアは敏感に反応したのだ。
  もし、ゼレンスキーがウクライナNATO核兵器を配備すれば、それはロシアにとって許しがたい事態となる。ウクライナの首都キエフからでもモスクワまでまずか750Kmしかない。これは、ほぼ東京―札幌間の距離に等しい。これでは、ロシアにとって警告の時間はほとんどない。今年2月初めのマクロン大統領のロシア訪問後の記者会見で、プーチンNATOの行き過ぎた東進は、互いの些細な過失によって極めて深刻な事態を引き起こしかねない、と警告した。
  しかしフランスの外相は、「NATOは核保有国だ」としてプーチンに圧力をかける愚を犯したため、プーチン核兵器による報復をほのめかし、緊張をさらに高めてしまった。西側メディアは意図的にこの経緯を伝えていない。これまでのところ、ロシアを挑発し緊張を高めているのはウクライナであり、欧米諸国だといえる。プーチンは現実主義者であり、これまでのところロシアは西側との合意を守り、一連の事態の展開を見守り受け身に徹している。
4.ロシアが軍事介入に至った経緯
  前述したように2021年3月24日、ゼレンスキーはクリミアを武力で再征服するという大統領令を発した。そして東部のドンバス地方や南方のクリミア方面でウクライナ軍を大規模に強化した。また同時に、NATOバルト海黒海の間で大規模な軍事演習を実施した。当然、ロシア側は反発し、ロシア南部で軍事演習を行った。
  その後事態は落ち着いたが、2021年9月、ロシアは4年に一度の恒例の軍事演習を実施した。演習終了後、ロシア軍は装備の一部をベラルーシ近郊に残した。これは、翌2022年初頭に予定されていたベラルーシ軍の演習のために提供したものだった。
  NATO、特に米国は、これをウクライナに対する攻撃の準備と解釈した。しかし、ウクライナ政府の認識はこの時点では違っていた。ウクライナ安全保障理事会の責任者も、当時、ロシアには戦争準備の兆候は無かったと述べていた。10月にベラルーシ近郊にロシア軍が残していた装備は、攻撃的な作戦に使用するものではなかったからだ。ところが、西側、特にフランスの軍事専門家はこれを戦争の準備と解釈してプーチンを狂人呼ばわりした。2021年10月末から22年初頭までは、以上のような状況であった。
  この問題で米国はウクライナに対し繰り返しロシアの攻撃計画を警告したが、ウクライナはその兆候なしとの判断でそれを否定し続けた。
  明けて2022年2月になると、米国はいよいよロシアの攻撃が迫っているとして、マスコミを通じて懸念を流布し始めた。米国のアントニー・ブリンケン国務長官は、国連安全保障理事会で、米国の情報機関の分析だとしてロシアの攻撃がどのように展開されるかを解説までした。
  これは、米国がイラクを攻撃するに至った2002年〜03年のシナリオに酷似している。我々はすでに知っているように、イラク大量破壊兵器はなかったし、米国の情報機関であるCIAはその仮説を認めてはいなかった。そのため、当時国務長官であったラムズフェルドは、CIAの分析を回避するため国防総省内に新設した自前の情報機関の情報として押し切った。
  今回のウクライナの文脈で、米国のブリンケンはまったく同じことをやった。ロシアにウクライナ攻撃の兆候が見られない状況で、CIAや他の欧米情報機関による分析が全くなかったからだ。ブリンケンが語ったことは、すべて彼の自前の“タイガー·チーム”が作成したものだった。つまり、米国が公に提示したシナリオは、専門的な情報分析によるものではなく、私設機関が政治的意図を持って作り出した代物だった。こうして、ロシアがウクライナを攻めるという「噂」が西側マスコミによって世界に拡散された。
  2月16日、米国大統領ジョー·バイデンは記者会見で、「我々は、ロシアが攻撃しようとしていることを知っている」と改めて公言した。しかし、記者にその根拠を問われると、CIAや国家諜報機関には言及せず、「アメリカには非常に優れたインテリジェンス能力がある」とだけ答えた。
  同じ2月16日、ワシントンから約8,400Km離れたウクライナ東部でウクライナ軍が停戦ラインを越えてドンバスを砲撃した、と欧州安全保障協力機構(OSCE)は報告している。
  2014年以降、親ロシア系住民が圧倒的に多いウクライナ東部のドンバス地方では、ウクライ軍と独立系人民軍(ドネツク民共和国軍)との間で紛争が絶えなかった。そこで、OSCE仲介のもとでロシアも含め当事者間が合意した停戦協定(ミンクス議定書、またはミンクス合意)が2014年9月に調印されたが、ウクライナ軍による攻撃は絶えず、2015年2月にはドイツとフランスが仲介して、2度目のミンクス合意が再度調印された。    
  しかしこの8年間、度重なる停戦合意にもかかわらず、ウクライナ東部のドンバス地方(ルハーンシク並びにドネツク民共和国との境界線)に設けた停戦ラインをウクライナ軍は度々越えてドンバス攻撃を繰り返した。この事実に関する詳細な報告は、OSCEの「デイリーレポート」で確認することができる。ここで注目されるのは、ロシアはこのミンクス合意を遵守し、状況の静観を続けていることだ。
  2021年に入るとドンバスの戦闘はさらに激しさを増し、同年10月末、ウクライナ軍がドンバスの市街地への砲撃を始めたことで、ついにロシアが立ち上がることになった。明けて2022年2月21日、前述したように、これまで内政問題として事態を静観していたプーチンは、ウクライナの攻撃に晒されていたドンバス地方の2つの共和国の独立を承認し、同日それぞれの共和国と友好協力条約を締結した。ロシアは、これにより国連憲章第51条を発動し、ロシア自身の自衛権と同共和国との集団的自衛権の枠組みで、2つの共和国を支援するための軍事的介入を行うことができる根拠を得て、ウクライナへの軍事侵攻が開始された、というのが実情である。
5.アゾフ連隊とネオナチ
  ウクライナはドンバスとクリミアの間の南部に全軍を集結させていたため、ロシア軍は迅速な作戦で、これらの部隊を包囲することができた。その結果、ウクライナ軍の多くは、スラビャンスククラマトルスク、セベロドネツクの間のドンバス地方で取り囲まれた。ロシア軍はこれを包囲し、無力化を図った。
  ウクライナは自軍の頼りなさを補うために、2014年以降、アゾフ連隊など強力な準軍事部隊を発展させてきた。実際には、ウクライナ指揮下の軍事集団は多数あり、外国人傭兵が多数いる。実はアゾフ連隊とは、フランス、スイスなど19の国籍で構成されている外人部隊である。ロイター通信によると、これらの極右グループは合計で約10万人の戦闘員を擁しているという。ゆえに、アゾフ連隊をウクライナ政府軍とする理解は正しくない。
  実際、ウクライナは大きな問題を抱えている。ウクライナ軍は自殺やアルコールの問題で死傷者が多く、慢性的に兵士が不足していた。また、軍の規律が悪く住民の間で信用されていなかった。そのため、ウクライナ政府は準軍事組織をますます奨励し、発展させてきた。これらの外人部隊には右翼思想の過激派が多く、単に暴力や殺人に快感を覚えるサディスト集団だと周囲から恐れられている。これが「ネオナチ」の正体である。
  その起源は1930年代にさかのぼる。ホロドモールとして歴史に名を残す極度の飢饉の後、ソ連への抵抗勢力が出現した。スターリンは、当時のソ連の近代化を進めるために、農作物を没収し意図的に飢饉を引き起こしていた。この政策を実行したのがKGBの前身であるNKVD(当時は内務保安省)である。NKVDは領土単位で組織されており、ウクライナでは多くのユダヤ人がトップの指揮官を務めていた。
  その結果、共産主義者への憎悪、ロシア人への憎悪、ユダヤ人への憎悪と、すべてが1つのイデオロギーに混同され集約された。最初の極右団体の結成はこの頃にさかのぼり、現在も存続している。第二次世界大戦中、ドイツ軍はステパン·バンデラのOUN(ウクライナ民族主義組織)やウクライナ反乱軍など、これらのグループを必要としていた。ナチスはこれらの組織を利用して、ソ連後方で戦った。
  1943年当時、ナチスドイツの軍隊は、ウクライナ東北部の街ハリキウをソビエト軍から解放した。ナチスは、ウクライナ人にとっては現在も解放軍とみなされ、ハリキウでは恒例で記念祝典さえ開かれている。この極右の抵抗運動の地理的な震源地は、旧ガリシアのリヴォフ(現リヴィウ)だった。この地域には、ウクライナ人だけで構成されナチスに属した独自のガリツィア親衛隊師団(第14戦車機甲師団)もあった。
  第二次世界大戦後、彼らの敵はソ連となった。ソ連は戦時中、これらの反ソビエト民族運動を完全に排除することはできなかった。アメリカ、フランス、イギリスは、対ソ戦略でこのOUNが有用であると認識し、ソ連に対する破壊工作と武器の提供でOUNを支援した。
  1960年代初めまで、ウクライナの反政府勢力は、エアロダイナミック、ヴァリュアブル、ミノス、カパチョなどの秘密作戦を通じて、欧米から支援を受けていた。以来、ウクライナ政府は、水面下で欧米やNATOと密接な関係を保っている。
  しかし現在では、前述のようなウクライナ国軍の弱体化により、狂信的な極右部隊(いわゆる「ネオナチ」)がウクライナ軍にとって代わるようになっている。ネオナチという呼称は、それと非常によく似た白人優位の民族的排他思想を持ち、同じシンボルを持ち、拷問や暴力を好む故につけられた。しかし、正確には統一されたイデオロギーはなく、金で雇われた外国人傭兵集団である。
6.ウクライナVSロシアの起点
  2013年秋、EUウクライナとの貿易·経済協定の締結を希望していた。EUウクライナ補助金を出し、貿易での発展を保証していた。ウクライナ当局は、EUとの貿易取引を成立させたいと考えていた。しかし、これには重大な問題があった。ウクライナの産業と農業は、ロシア向きに確立されていたのだ。例えば、ウクライナが開発した航空機エンジンは、欧米の航空機用ではなくロシアの航空機用だった。つまり、産業界の一般的な指向性は、西向きではなく東向きだったのだ。品質面でも、ウクライナ製品は欧米市場では即戦力にならない。そのため、当面ロシアとの経済関係を維持したまま、EUと段階的に貿易を発展させたいというのがウクライナ政府の意向であった。
  ロシアは、このウクライナの計画を問題視していなかったが、ウクライナとの経済的な関係は従来通り維持したいと考えていた。そこでロシアは、ウクライナEU間の協定と、ウクライナとロシア間の協定の2つを管理する三者ワーキンググループの設立を提案した。すべての関係者の利益を保全することがその目的だった。これに対しEUは、バローゾ委員長が、ウクライナにロシアかEUかの二者択一を求めた。ウクライナは、解決策を考える時間をくれと言った。その後、EUと米国はマスコミを使って工作をした。
  欧米のマスコミは、「ロシアがウクライナに圧力をかけ、EUとの条約阻止を狙っている」と吹聴した。しかし、これは事実ではなかった。ウクライナ政府は、EUとの条約に関心を示し続けたが、単にこの複雑な状況の解決策を検討するための時間が欲しいだけであった。だが、西側メディアはそうは言わなかった。その後キエフのマイダンに、突如、西側から右翼の過激派が現れた。欧米の支援を受けてウクライナで起こっていることは、ウクライナ国益ウクライナの人々の自由と権利を無視した一方的な内政干渉でしかない。
7.ウクライナに於ける民主主義の実情
  2014年2月のマイダン革命から生まれた暫定政府は、その最初の政策としてウクライナ公用語法を変更し、ウクライナ語以外のロシア語やその他の言語の使用を禁止した。この事実は、先の革命が、民主主義とは何の関係もなく、右翼の超国家主義者の産物であったことを物語っている。
  この法改正は、ロシア語圏に嵐を巻き起こした。オデッサマリウポリドネツク、ルハーンシク、クリミアなど、東部や南東部のロシア語圏のすべての都市で大規模なデモが行われた。これにウクライナ当局は、軍隊で鎮圧するという残忍な対応をした。ウクライナ政府のこの暴挙に対し、オデッサ、ハリコフ、ドニエプロペトロフスク、ルハーンシク、ドネツクでは自治独立の声が上がった。ドネツクとルハーンシクの2つの州では実際にそれぞれ共和国として独立宣言がなされた。
  2014年5月、この2つの州で住民投票が行なわれ、共和国としての独立を支持する人々が大勢を占めた。だが、ここで見過ごしてはならない重要なことがある。ウクライナ領内のこれら2つの共和国は、民衆が自治独立に賛成した後、即刻ロシアに同共和国の認定を求めた。しかし、プーチンはこの要請を拒否し、すぐには認めなかったのだ。
  また、クリミアについては、ウクライナが独立する以前から独立宣言していたことを我々は忘れてはならない。ソ連がまだ存在していた1991年1月、クリミアはキエフではなくモスクワの直接管理下で住民投票を実施した。そして、当時のソ連から、社会主義自治共和国として、クリミアは独立が認められていたのである。
  ウクライナの独立を問う住民投票が行われたのは、それから半年後の1991年8月である。この時点ではすでに、クリミアはウクライナの一部とは見なされていなかった。しかし、ウクライナはこれを受け入れなかった。
  1991年から2014年にかけては、この2つの主体の間で常に争いが絶えなかった。クリミアには独自の憲法があり、独自の政府があった。しかし、1994年12月にOSCEが仲介し国連常任理事国の全てが実施的に保証した「ブダペスト覚書」を後ろ盾に、ウクライナはクリミア政府を軍事力で転覆させ、一方的に自国に編入統治したのだった。
  ウクライナから押し付けられた政令は、クリミアが行った1991年の住民投票と完全に矛盾していた。2014年にウクライナで超民族主義の新政権が誕生して以来、クリミアが新たに住民投票を実施した理由もここにある。その結果は、30年前と同様、クリミアはロシア連邦への加盟を求めた。クリミアを強引に編入したのはロシアではなくウクライナの方だった。そして、ロシア連邦への加盟を求めたのはクリミア国民自身である。
  1997年に締結されたロシアとウクライナの友好条約では、ウクライナ政府は国内の少数民族の文化的多様性を保障していた。しかし、2014年2月、ロシア語が公用語として禁止された時、この条約はウクライナによって一方的に破られた。
  同様に、ドンバス共和国の自治は、先のミンスク合意で保証されていた。保証人は、ウクライナ側はドイツ、一方のドネツク共和国とルハーンシク共和国側はフランスとロシアだった。この枠組みは、OSCEが提供したものでEUは関与していない。
  第1次ミンスク合意の直後に、ウクライナはすでにこれを無視し2つの共和国に対して軍事作戦を仕掛けたのだ。しかしその結果、ウクライナ軍は完敗。これが2015年2月の第2次ミンスク合意につながり、これは国連安保理決議の根拠となった。したがって、この第2次合意は国際法の下で拘束力を持ち、実施されなければならなかった。だが、これも再びウクライナ政府は無視した。
  それのみならず、ウクライナ政府は、自国の問題をロシアに責任転嫁することにした。ウクライナ政府は「ロシアがウクライナを攻撃した」と主張し、それが問題の根源であるとした。
  しかし、これはウクライナ政府に起因する問題であることは明らかである。事実、2014年以降、現地のOSCEの監視員は、ウクライナ領内でロシア軍部隊を見たことがないと明言している。つまり、この解決策はウクライナ政府に見出す責任がある。それは、国内の自治州の民主的な選挙の結果を尊重することであり、この問題を解決できるのはウクライナ政府だけなのである。これに関して、ロシアは関係ない。
  以上を総括してみれば、ウクライナ政府が国際的に行った悲痛な訴えに反して、ウクライナは被害者とは言えないことは明らかだ。実際には、ウクライナの人々の自由と安全を守るはずの国際協定を一方的に反故にしてきたのはウクライナ政府自身であった。
  ウクライナ政府は決して被害者ではない。しかし、真の被害者は、欧米の内政干渉と統治能力のない自国政府によって翻弄されてきた、ウクライナの人々であることは間違いない。
8.まとめとして
  我が国日本は、ウクライナとは直接の利害関係にはない。しかし、ロシアとは領土問題や漁業交渉、さらにはエネルギー依存等、直接の利害関係があることを忘れてはならない。
  我々は、あくまで日本の国益と自国の安全保障を熟慮し、西側同盟国に属するとはいえ、ウクライナ問題に関しては極力中立を保つべきである。その上で、ロシアとは独自の外交を維持し、ロシアとの新たな安全保障環境を開拓すべき時にきている。
  以上の理由から、我が国政府には、対ロシア経済制裁を含む外交政策の再考と国益最優先の勇気ある転換を、強く諫言申し上げる次第である。
以上。