反省の歴史、源平(2022年6月27日)

またしても源平の話ですみません。

平治の乱の時、悪源太義平が父の義朝の元に13騎の武者を引き連れて応援に来た。が、父親が期待していた人数には程遠い。平家寄りの坂東の豪族たち(坂東平氏は平家よりと源氏よりに分裂していた)の妨害もあったのだろう。義朝は数千騎の兵を期待していたはず。結局、義朝は清盛に敗れる。義平がもっと大軍を引き連れて来れば結果は違っていたかも?知れない。

勝った清盛は幾多の助命嘆願があったにせよ、何故に頼朝を殺さなかったのか。ましてや、常盤御前の子3人も助命している(この中に後の義経がいた)。
頼朝さえ殺しておけば、他の源氏がどうあがいても、頼朝のような優れたリーダーとなり大きな組織を束ねる事は出来なかったはず。伊豆に配流した後も手ぬるかった。その気になれば、殺す機会は何度もあったはずだ。頼朝さえ始末しておけば、平家(伊勢平氏の事を他の桓武平氏と区別してこう呼ぶ事もある)があのように早く滅亡する事はなかったはず。

が、これには清盛の弟である平頼盛の力が働いていたのだ。頼朝の助命嘆願を願い出た人物は多いが、その中に池の禅尼とその子である頼盛もいた。伊豆に配流された頼朝の安全を守ったのも頼盛の指図であったのでは?と言われている。また清盛とは父の忠盛の後継選びで清盛に敗れたのもあり、清盛とは不仲だった。そのために平家の都落ちには従わず都に残った。頼朝が平家討伐&木曽(源)義仲討伐の兵を都に送る前に、頼盛は鎌倉の頼朝を頼り都落ちした。頼朝は頼盛を客人として受け入れ、後にその息子たちを正式に幕府として発足する前の幕閣として取り立てている。こうして伊勢平氏の忠盛の血統は守られた。(その他、平氏一門の中にも平家の都落ちに同行せずにいた者も若干いました)

平重盛は温厚だと言われ、清盛の暴走を諌めた・・・とされている。が、実際は違うようです。確かに温厚で文武両道に優れていたのですが、息子の資盛が遠出から帰宅途中に大路で摂政藤原基房の車とかち合いました。この際、格下の者が車を降りて一礼するのが習わしでした。が、資盛は車から降りないので、怒った基房の従者たちが資盛を車から引きずり出し車を壊し、資盛と従者たちを散々辱めました。(殿下乗合事件です。摂政や関白は殿下と呼ばれています)これに怒った重盛が基房に抗議します。基房は従者たちを差し出して許しを請いますが、重盛は許さず基房の屋敷に乗り込んで仕返しをします。この事件は後に後白河上皇の仲介により和解します。
また鹿ケ谷事件の折、陰の首謀者であるのは明白な後白河上皇を見て見ぬふりを決め込む清盛に後白河上皇に厳罰をと主張します。結局は受け入れられませんでした。後白河さえ島流しにしておけば、その後の展開は随分と違ったものになっていたでしょうに。とにかく重盛が死ぬまでの清盛は優しすぎたのです。が、平家物語では逆に描かれています。清盛を悪役にして話を盛り上げるためです。

また、清盛は何故に宗盛のような暗愚な息子に平家を任せたのか?出来のいい次男の基盛は24才で病死、出来のいい長男の重盛も41才で病死。残る候補は三男の宗盛、四男の知盛、五男の重衡でした。清盛は知盛を後継者に考えていたのですが、武勇に優れリーダーシップがあり、理知的な知盛ですが、時々病臥する事があったために戦時の憂慮をして後継者に宗盛を選んだそうです。これが大誤算でした。宗盛は出来が悪く統率者となるには器量がなさ過ぎたのです。(あっしは宗盛とそっくりな人物の元で働いていましたが、これじゃ平家は滅亡して当たり前だと痛感しております。離脱してよかった) 清盛は何故に選択を誤ったのか?知盛が候補としてイマイチなら弟の頼盛という選択枝もあったはず。頼盛なら頼朝と和睦していたでしょう。または妻の時子を女頭領として知盛を軍の総大将という選択もあったはず。

屋島に本拠を置いた平家は何故、須磨の合戦を最初に仕掛けたのか?大いに疑問だ。
憎き義仲・行家を水島と播磨で打ち負かして意気が上がっていたのに、わざわざ大軍の鎌倉軍を相手に陸戦する必要があったのか?最初から得意の海上戦に持ち込めば緒戦を勝って、以降平家に味方する勢力が増えたであろうに。あっしが思うには、大坂(今の大阪市)辺りは当時は海上戦も陸戦も出来て、陸戦の場合も船で兵を源氏軍を挟み撃ちするように次々に送り込めば勝っていたであろうに。

屋島の合戦の時、何故平家はというよりは宗盛は屋島を放棄したのか?義経の陽動作戦に乗せられて嵐の直後に来るはずのない大軍が来たと勘違いして舟に全員が避難したが、少人数だと分かった時点で即全軍で押し戻せば陣屋を奪い返すのは容易いし、義経たちを屋島から追い払い、源氏に呼応しようとしていた勢力を平家側に呼び戻していたやも知れぬ。屋島を放棄した時点で平家を見限った豪族や水軍は多かったはず。
また彦島にいた知盛は少数ながらも山陽道を九州に進軍する範頼軍の進軍をゲリラ戦法で度々妨害して範頼軍の中には引き返そうと主張する者が出ていた。それもこれも屋島に平家の本拠があっての事。屋島が陥落したとあって範頼軍の士気は上がり、気が変わった中国・九州の平家勢力は範頼を受け入れ範頼はあ九州に渡った。これで九州の豪族で平家に味方するのは菊池氏はじめ極少数になった。
知盛は逃げ延びてきた宗盛らを受け入れたが、すでに九州からも中国地方からの補給は押さえられて勝負は決していた。平家が起死回生をするためには義経率いる水軍に大勝し、源氏側についた豪族や水軍を再び味方に付けてリセットする必要があった。
が、結果は最初は優勢だった平家だが、義経の漕ぎ手を射る作戦のために潮に流されて漂流し裏切り者が続出し敗退。関門海峡では九州側と赤間ヶ関側からの矢の攻撃で壊滅した。

やっぱり平家は滅ぶべきして滅んだのだ。やる事なす事が全て裏目ではね。
歴史は温故知新です。上記のような選択のミスを何個かしても挽回できるのに平家の最期はそうではなかったのです。流れは変えられなかったのです。知盛は以前から危機感を抱いており平家は滅びいくのを悟っていたそうです。最期は運命を受け入れて最期の有様を見届けて潔く自決して果てました。決して平家の二の舞を繰り返さないように温故知新を心がけましょうね。
色んな側面から検証してみるといいのですが、まだ書きたい事があります。今回は主に軍事面からの視点で見てみました。
 日本では「歴史にもしもがあれば」と言う話はタブーになっています。歴史とは全ての事にあります。科学の歴史を始めとして個人の歴史、その他色々と。
人間以外の動物も失敗を教訓にして生き延びた個体がより優れた子孫を残しています。
何故あの時に失敗したのか、何故あの時に成功したのか、何故上手く行かなかったのか、何故上手く行ったのか、どうすれば良かったのか・・・と言う事を検証しないから何度も似たような失敗を繰り返すのです。
何度も同じような失敗を繰り返しても生き延びてきた日本は運が良かっただけなのです。その代わり世界中から食い物にされていますが。