tarobee8のブログ(戯言)

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祖父の命日

今日は祖父の命日です。今から77年前に私が生まれる遥か前に祖父は亡くなりました。
広島市の段原の大地主であったが、当時の五海市村(後の五日市町で現在は広島市佐伯区)の別荘に疎開していて
亡くなった。終戦前だった。浅野家の家臣の末裔で、大地主の分家の初代で不動産賃貸業で家は裕福でした。新しいものが大好きでボートやバイクやボートに乗ってお洒落でダンディで凄いプレイボーイで毎日若い愛人の家に
日替わりで寝泊まりしていた。
疎開先の別荘ではホールで近所の人を集めてダンスパーティをして社交家だった。
バイクの商売のために横浜にバイクの買い付けに行っていて関東大震災に遭遇して持っていた紙幣は
全部焼けて消失。持っていた宝石を売ってはお金に換えて列車に乗って帰って来た。祖母がニュース映画で夫の
姿を見て生きているのを確認した。そして広島に帰って来て生まれたのが母だった。もし祖父が死んでいたら
母は生まれてこなかった。母は末っ子で女の子でどうでもいい子だったが、娘たちはみなお嫁に行き、中には病死したりしたのもあった。
男の子は1人だけで妹の私の母をかわいがってくれたそうだ。母は祖父に「今日はどこの女の家に泊まるんね」と聞いたほど祖父は
女好きだった。好き勝手に自由奔放に生きて来た祖父だが、たった1人の男の子が亡くなって意気消沈して
晩年は寝込んでいた。母は広島第一県女を卒業して廿日市の小学校の教師をしていた。ある朝、祖母が祖父が
寝たまま亡くなっているのを知って母に言った。そして大八車で焼き場に連れて行って当時は貴重品だった
薪を束ねて祖父の遺体を荼毘に付した。唯一残った子供の母がN家の跡取りになった。終戦後に教科書の
隅塗り事件を体験して「昨日までこれが本当で、今日からあれはウソでこれが本当だというのは教育ではない」
と教師を辞めて廿日市の教育事務所に勤めていた。あ、広島に原爆が投下された時に学校からきのこ雲を見て
これは大事だと広島市内にいる親戚を尋ねに行った。天満川を渡る橋の所に番人がいて「ここから先に入ったら
命がないので帰りなさい」と言われて引き返したそうだ。爆心地の近くだ。そこまで行く途中で皮が垂れ下がって
幽霊みたいに歩いている人々を見たり、焼けた丸太に当たったかと思ったら黒焦げになった遺体だっった。
迂回して広島市の爆心地の東側に入って祖母の実家はみなちゃぶ台を囲んで骨になっていた。段原の親戚は
比治山の陰になって無事だった。それでも母は草津被爆者の介護に当たった。爆心地付近で母は放射能を相当吸い込んでいただろう。
放射線も相当浴びていたはずだ。母は私が小さい頃は病弱だった。原爆症だ。段原の親戚は一時母の住んでいた別荘に一緒に
住んでいて、後に母の実家と別荘の他にあった楽々園の土地と家を祖母を騙して実印を突かせて騙し取った。
教育事務所に勤務していた頃に父がいて(サイパン島で負傷して最後の船で日本に帰って来ていた)母に猛アタックして
養子にでもええけえ、お母さんの面倒も看るけえと言って母は根負けして父を婿養子に向かえて結婚して4人の子を産んだ。
段原は焼け残ったので不在地主の土地に勝手にバラック小屋を建てて不法占拠して母もその犠牲者だった。
借地権が後に付いて大事になった。母は小さいころから親の代わりに借地権者の賃貸料を集金しにいっていて財産を把握していた
ので、その後も集金を続けて長い間の裁判で借地権を買い取って取り戻した。相当苦労しているのだ。悪いのも相当いた。
長くなるのでその話はこれでお終い。母が認知症になって母の懇願で私は看護師を辞めて母の仕事を覚えた。教えてくれる
情報はほんの僅かだけで、後は探してまで覚えた。私のお陰でN家は存続できたし、母の介護も出来た。長男は全くお話にならず。
母の死後の手続きも半端な量ではなくて苦労した。その間も経営や管理や会計も母宅の庭仕事も物件の野良仕事も私だけが
していた。他の兄弟3人は何もせず、何も知らずで私を使用人のようにこき使って来た。遺産分割も私が主導してやった。
私がいなければ何がどうなっているのかみなサッパリ知っていない。私に感謝して当然だが、不平不満ばっかりだった。
2020年にやっと自由になってお墓参りにも自由に行けるようになって祖父の命日のお墓参りをしてきたのでした。
それ以来、毎年、両親や祖母と祖父の命日にはお墓参りをしています。2020年まではお墓参りもままならないくらい
忙しくて、人に話しても信じてもらえませんでした。