tarobee8のブログ(戯言)

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関ケ原の合戦は三方ヶ原の合戦の焼き直し

徳川家康は負け戦を教訓とした人だったようだ。

三方ヶ原の合戦の焼き直しが関ヶ原の合戦だった。

両方に共通した点があります。

 

家康:駿府城に立て籠もり籠城戦をするつもりだった。が、信玄に無視されて素通りされて、頭に来た。

光成:大垣城に立て籠もり籠城戦をするつもりだった。実際に籠城戦での光成は強かった。

家康:駿府城から出て信玄を撃つつもりだったが、三方ヶ原で信玄と出会うと、鶴翼の陣を敷いて待ち構えられていて、大敗して恐怖のあまり脱糞して逃げのびた。

家康:城攻めは埒が明かないと、得意の野戦に持ち込むためと光成を大垣城から引きずり出すために、西方面に軍を進めて、大阪城佐和山城を攻めると見せかけて光成を大垣城から誘い出した。

光成:こう言う事もあろうかと、あらかじめ味方の軍を関が原に鶴翼の陣で布陣させていた。徹夜で大垣城から関が原にたどり着いた。夜が明けて明るくなり、見えた光景は鶴翼の陣で勝てると思った。

家康:事前に光成の軍から裏切り者と内通していて、いざとなれば家康の方に付くように決めていた。手はず次第で、家康の軍が鶴翼の陣(逆鶴翼の陣)になる予定だった。

光成:実際に動いていた軍は光成と大谷刑部と島津くらいだったが、大阪城から持ち出した大砲で有利に展開していた。

家康:内通している小早川の軍が一向に動かないので、大砲で脅かして、小早川の軍は山を下って大谷刑部の軍に襲い掛かり、逆鶴翼の陣になり、その他の内通者も手はず通りで、家康の大勝。

光成:これは叶はぬと逃げる。

 

とまあ、こんな具合にソックリです。