2022年2月14日
富士川の戦い(ふじかわのたたかい)は、平安時代後期の治承4年10月20日(ユリウス暦1180年11月9日、グレゴリオ暦16日)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦である。
1179年7月28日に平清盛の嫡男の内大臣の平重盛が亡くなると、清盛は三男の平宗盛に家督を譲った。重盛の嫡男の維盛はまだ若輩で棟梁にはなれなかった。
宗盛は重盛の跡を継いで従一位内大臣になった。
1180年に伊豆に流罪になっていた源頼朝が山木兼隆の側室になっていた北条時政の娘の北条政子が山木兼隆の元を逃れて、かねてから恋していた源頼朝の所に駆けつけて頼朝の妻になった。治承4年8月17日(1180年9月8日)、頼朝は以仁王の令旨を奉じて、舅の北条時政や土肥実平、佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代山木兼隆の館を襲撃して殺害した。だが、続く8月23日(今の暦では9月14日)の石橋山の戦いで頼朝は大庭景親、伊東祐親、梶原景時率いる平家方に惨敗してしまう。
頼朝は山中に逃げ込んで平家方の追跡をかわし、土肥実平の手引きで船を仕立てて真鶴岬(神奈川県真鶴町)から安房国へ向かった。(平家方の武将であった梶原景時が頼朝を見つけたが、わざと見逃したので頼朝は一命をとりとめたという逸話もある)
頼朝に味方していた三浦一族も平家方の畠山重忠らに本拠衣笠城を攻められ、城を捨て、海上へ逃れた。
8月29日(9月20日)、頼朝は安房国平北郡猟島に到着した。同地で先発していた三浦一族らと、地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣した。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求めた。千葉常胤はただちにお迎えするとの返事を寄こし、挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが(結城浜の戦い)、房総半島に大きな勢力を有する上総広常の向背には不安があった。9月13日(10月3日)、頼朝は300騎を率いて安房国を出立した。17日(10月7日)に頼朝は下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。19日(10月9日)に武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。
29日(19日)の時点で、諸国の兵が集まり、2万5000余騎に膨れ上がっていた。
10月2日(10月22日)、頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、何らの抵抗を受けることなく10月6日(10月26日)に源氏累代の本拠地・鎌倉に入った。
治承4年8月頃には武田信義、安田義定、一条忠頼ら甲斐源氏が挙兵して甲斐国を制圧した(『山槐記』)。8月25日には、石橋山で頼朝を破った大庭景親の弟俣野景久と駿河国目代が安田義定らと波志田山にて交戦した(波志田山合戦『吾妻鏡』)。駿河国へ侵攻し、10月14日(11月3日)に富士山の麓で目代橘遠茂の3000余騎を撃破した(鉢田の戦い『吾妻鏡』)。 鎌倉幕府による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、甲斐源氏に対して頼朝は北条時政、加藤景廉らを派遣して、その指示のもとに行動していたように記されているが、これは後世の幕府による創作であり、甲斐源氏は頼朝とは別に以仁王の令旨を受けて挙兵しており、この時期に頼朝の指揮下に入る理由がなく、そもそも維盛の追討軍の目的は頼朝ではなく、甲斐源氏であったという見方もある。
頼朝挙兵の報は、9月1日(9月21日)に大庭景親より福原へもたらされた。5日(25日)に平清盛は追討軍を関東へ派遣することを決定する。
追討軍の編成は遅々として進まず、平維盛、忠度、知度らによる追討軍が福原を出立したのは22日(10月12日)であった。京に入っても総大将の維盛と次将(参謀役)の藤原忠清が吉日を選ぶ選ばぬで悶着があり、京を発したのは29日(10月19日)になってしまった。
平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で勢力を回復し、甲斐国では甲斐源氏が、信濃国では源義仲が挙兵した。
追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めたことで7万騎(『平家物語』)の大軍となるが、所詮は寄せ集めであり、折からの西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しみ、士気は非常に低かった。
(・・・)ユリウス暦はです。
10月13日(11月2日)、追討軍は駿河国へ入った。
10月14日(11月3日)の鉢田の戦いにて甲斐源氏は駿河の平氏方現地勢力を撃破する。
16日(5日)に頼朝は平氏軍を迎え撃つべく鎌倉を発する。
17日(11月6日)に武田信義は維盛に挑戦状を送りつけ、「かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」という不敵な内容に侍大将の伊藤(藤原)忠清が激怒し、使者は斬らない兵法は私合戦に置いての事で、官軍には適用されないとして使者2人の首を斬った(『山槐記』『玉葉』『吉記』)。 同日頼朝は相模国豪族波多野義常を討つために派兵する(『吾妻鏡』)
10月18日(11月7日)に大庭景親は1000騎を率いて駿河の維盛の軍に合流しようとするが、頼朝または甲斐源氏に行く手を阻まれ、相模国に留まった後、軍を解散し逃亡した。景親は後に頼朝に降参するが許されず、斬られている。
2万余騎の甲斐源氏の軍勢は10月18日(11月7日)に布陣した。同日夜頼朝は黄瀬川沿いに布陣した。
10月19日(11月8日)、伊豆から船を出して維盛と合流しようと図った伊東祐親・祐清父子が捕らえられた。
大庭氏、伊東氏、駿河豪族などの在地親平氏勢力の壊滅や坂東などの豪族たちが雪崩をうって頼朝らについたという状況は、在地勢力による反乱軍への初期対応を戦略の一貫に組み込んでいた平氏方の構想を挫くことになった。
玉葉によると18日、吾妻鏡によると20日、甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、『吾妻鏡』によると頼朝は駿河国賀島に進んだとある。平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。この要因として、平氏軍の大半が遠征の中途で徴発された駆り武者によって占められていることなどが挙げられている。両軍の兵力差から、平家方は戦う前から戦意を喪失しており、奇襲に対してかなり神経質になっていたものと思われる。
両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結する。
一説によると、翌朝の戦いを有利に進めるために夜のうちに平家軍の後方に兵を忍ばせて置こうとして富士川を渡らせていると水鳥が驚いて一斉に飛び立って、その羽音を平家軍が
敵の夜襲だと勘違いしてパニックになり一斉に逃げだしたとなっている。
なお、従来は頼朝が富士川の戦いの当事者と見なされていたが、最近の見解では合戦に勝利した主体そのものが甲斐源氏であり、『吾妻鏡』の記述は治承・寿永の乱で頼朝が常に源氏の中心であったかに装う後世の創作で、実際には頼朝は後方にあって副次的な役割しか果たしていないという説が有力である。近年発行の出版物では甲斐源氏主体説をとるものが増えている。
京に逃げ帰ってきた維盛は清盛の怒りに触れて、もう少しで自害させられそうになった。
後に源義仲と平家が戦った時も平家軍は軍を二手に分けて義仲を挟み撃ちにする予定だったが、
維盛率いる軍が倶利伽羅峠で山中の両側が絶壁の街道沿いに夜になったので兵を休めていると義仲が牛の角に松明を付けた牛の大群を突っ込ませて維盛軍は壊滅して、命からがら逃げかえっている。
もう一方の知盛の率いていた平家軍は退路を断たれた格好になったが、こちらは何とか追っ手を躱して京に戻っている。