tarobee8のブログ(戯言)

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三国志の人物像~曹操孟徳

2021年3月19日

曹操孟徳(そうそうもうとく)は姓は「曹」名は「操」字(あざな)は「孟徳」。155-220。後漢から三国時代にかけての武将・政治家。現在の安薇省亳州市出身。
父親は曹嵩で、元は夏侯氏出身。中常侍の宦官「曹騰」の養子になり、曹姓となった。当時位の高い宦官は家系を保つために養子をもらう事が許されていた。曹嵩は最終的に「太尉」(司馬ともいう=国防相)になった。そのためにどうやら賄賂を使ったらしい?が、これも息子の出世を助けるためらしい。威張ったりせずに物静かで温厚な人物だったそうだ。曹操の従兄弟には「夏侯惇」「夏侯淵」がいる。
曹嵩の息子「曹操」は、そうした事情から「宦官の孫」として周囲から賤しまれてきました。当時出会った「橋玄」という知識人に出会い誉められている。そのために勉学に励んでいる。当時横行していた賄賂やご機嫌取り(有力者に媚びへつらう)が大嫌い。若い頃は洛陽北部尉をしていて、規律が乱れ賄賂・規律違反がまかり通っている事(権勢がある者やそれに媚びへつらう者は悪事を働いても報告されず、処分もされない。が、権勢がなく権力者に媚びへつらう事をしない者は非の打ち所がないのに濡れ衣を着せられて処罰される・・・など)に立腹し誰であろうと(高官でも)規律を守らせた。ある時霊帝の寵愛を受けている高官の身内が規則を破ったので規則どおり棒でたたき殺してしまった。周囲から相当疎まれたが、霊帝に実態を告げ改善を求めた。(規律違反者は棒で撃ち殺して良いという規則を作ったのは霊帝だった。)霊帝は一度はそうした換言を聞き入れ不当に処罰された人たちの名誉回復などを行った。が、また同じ事の繰り返しになり、それ以上の換言は無駄とあきらめた。
疎まれた曹操だが、清廉潔癖なために咎められようもなく、地方に飛ばされた。頓丘の県令に栄進して洛陽の都から遠ざけられた。
その後、184年に黄巾の乱が起こり、騎都尉として討伐軍に加わり戦功を挙げ、済南国相(郡の太守と同格)になります。そこでも汚職が蔓延っていて一掃します。またその地で邪教が蔓延っており禁止します。(また議郎(政策を献上する)にもなっていますが、誰も自分の言う事を相手にしてくれませんでした。)それが評価され「東郡太守」に昇進しました。が、ここでも汚職まみれ。官を辞して帰郷しました。が、188年に韓遂の乱が起こり、首都防衛軍の司令官である西園八校尉のひとつ「典軍校尉」に任命されます。その後189年に霊帝が死亡します。
当時、十常侍といって腐敗した宦官たちが朝廷の実権を握っていました。霊帝の後を継いだ幼い「小帝」の母親の兄・大将軍「何進」が、十常侍たちを処分しようとして太后に相談しましたが、断られ地方に出ている高官の武将たちを洛陽に呼び戻し、十常侍たちを殺そうと檄文を発しました。が、何進は殺されてしまいます。そうした中を「董卓」が軍を率いやってきて、十常侍たちを皆殺しにし、実権を握ります。最初は大人しくしていた董卓ですが、四世三公の名門の若き「袁紹」を巻き込もうとして上手く逃げられます(洛陽を脱出した)。これに董卓は怒ります。逮捕を命じます。

(三公とは、丞相(司徒・大司徒)・副丞相(司空・大司空)・国防相(太尉・司馬・大司馬)を指します。国のTOP3です。袁紹の曽祖父:祖父:父:叔父が各々いずれかの三公を歴任していて、4代に渡り三公をしている名門のお坊ちゃまです。が、坊ちゃん故に優柔不断、機を読むに鈍感、行動力不足といった欠点がありました。これは荊州牧の劉表にも当てはまります。当時の中国は家柄が物凄く尊重されていたのです。なお、袁紹袁術は従兄弟という事になっていますが、本当は兄弟です。袁紹袁術も袁家の分家に生まれています。袁紹は側室の子。袁術正室の子です。袁紹は袁家の本家に養子に行きました。そして本家の跡取りになったのです。袁術は嫉んで「妾の子が」と袁紹を毛嫌いしていました。やがて二人は対立する事になります。
また、車騎将軍と大将軍は三公に準じます。)

さらに曹操董卓の本性に気づいて洛陽から命がけの脱出をします。途中、怪しい者として捉えられましたが、曹操だと気づいた人物から開放されて地元まで逃げ帰りました。ここで私兵を募り、「反董卓」の旗揚げをします。最初はまず自分の身を守るのが救急事項だったのもあります。
その間、袁家の人間を罰してはまずいという理由で袁紹渤海郡太守になり、冀州牧になりました。

ここまで書いてお分かりでしょうが、曹操は腐敗した後漢王朝の官僚の中にあって貴重な人材でした。中国に限らず各々の歴代王朝の末期は腐敗に腐敗を重ね私利私欲ばっかり考えていた人たちの温床になっていました。曹操は家柄や身分や賄賂などで全てが決まる社会を一新し、才能や実力のある人たちのための世の中を目指していたと思います。そのためか後世、権力者になっても敵方についた人たちも才能があれば重用しています。また即決即断・機を見るに敏感・素早い行動力の持ち主でした。

袁紹曹操に本性?を見抜かれた董卓は豹変し、恐怖政治を行います。小帝を廃し、協王子(陳留王)を新しい皇帝(献帝=賢い皇帝という意味です)にすえます、傀儡として。小帝とその母親は殺害されます。さらに自分に異を唱える人たちを次々に虐殺。見せしめというのもあります。董卓は相国(太政大臣)に上ります。後に大師にまでなります。
190年、董卓の横暴を誅するという名目で曹操は反董卓連合を呼びかけますが、役不足(名門でない)のために呼びかけは上手くいきません。こうなりゃ名門の袁紹を頼り全国の諸侯に呼びかけます。すると諸侯が応じました。こうして袁紹の下に諸侯が集まります。曹操もかけつけます。が、董卓軍と対峙しても小競り合いばっかりで一向に全軍で戦おうとしません。みんな各々を牽制し合い敵(董卓)と戦う前に仲間同士の政治的な争いです。やがて董卓は洛陽の都を焼き払い、長安に遷都します。今がチャンスだ!と袁紹たちに進言しますが、受け入れられませんでした。曹操軍は単独で攻撃しますが、多勢に無勢で敗れます。そうこうしているうちに諸侯は各々の領地に帰っていきます。曹操も連合軍?を見限って撤兵します。
191年、黒山の乱を機会に再び東軍太守になります。
192年、董卓は配下の呂布に暗殺されます。呂布は昔、丁原を義父として仕えていましたが、董卓にそそのかされ丁原を殺して董卓に仕えています。三国演技などの物語では、ここに貂蝉という後漢重臣王允の娘が登場して董卓呂布の両方に色仕掛けをして仲たがいさせ、呂布董卓を殺すという回りくどい設定になっています。が、呂布は欲しがるものを与えたら簡単に寝返る人です。おそらく王允達が画策して呂布に高官を与える代わりに董卓を撃たせたのでしょう。その後、董卓が殺されたと知った董卓の配下は長安に攻め入り王允たちは殺され、呂布は脱出して袁術の下に逃げ込みます。そして追われるようにして袁術からも去り、河内太守「張楊」の元に転がり込みます。そこからも追われるように逃げて袁紹を頼ります。
董卓が殺されると各地の黄巾残党が暴れだし、兗州(えんしゅう)刺史の劉岱が殺されます。曹操は済北国の相である鮑信により後釜として兗州刺史に任命されます。そこで青州の黄巾残党30万を討伐し、配下に組み入れました。実は討伐したというのは建前で、黄巾兵はいつまでも賊として追われるのに疲れ果てていて安堵する所を求めていたのです。曹操は名門でない上に兵が不足していました。こうして講和の元に青州黄巾軍は吸収されたのです。これで曹操は勢力を大きく拡張しました。朝廷から正式に任命された「金尚」が兗州刺史としてやって来たが、追い返した。
193年、曹操に一大事件が降りかかった。袁紹袁術が兄弟げんかから戦争を始めて、袁術公孫瓚(こうそんさん)に援軍を求めた。公孫瓚劉備玄徳と陶謙を援軍に回したが、袁紹に味方した曹操に敗れて袁術は逃げた。その際、曹操の父「曹嵩」と弟の曹徳が陶謙の部下によって襲われ殺された。陶謙には曹嵩たちを殺すつもりはなかったが、部下が暴走し殺害・掠伐したのだ。
194年、曹操は父の敵討ちのために徐州に攻め入った。そして民・兵を問わず皆殺し。そのために曹操の評判はがた落ちになり、後世まで悪い評価を受けている。これが、物語では漢の丞相とは名ばかりの極悪人扱いされる原因となった。(漢を牛耳る横暴な丞相、聖人君主劉備玄徳と対立する悪党のイメージ)
兵糧が尽きたので帰ろうとするも、配下の張邈(ちょうばく、董卓攻めの際に援軍した曹操にとっては友人)が留守を守っていたが、袁紹を見限って逃げた呂布を迎え入れており自分の拠点が危ない。程いくと筍いく(すみません、漢字で書くと文章全体が文字化けするので表記を変更しています)が残った領地を死守して、やがて呂布は後退する。そして曹操は帰還した。
この頃、後の蜀漢の丞相となる諸葛亮孔明とその一家が琅邪から叔父の諸葛玄を頼りに行く道中にこの死体の山々を見て曹操を毛嫌いする原因になったそうだ。
195年、呂布を打ち破り呂布は敗走し陶謙の死後後を託された徐州の劉備玄徳を頼る。
196年、董卓の残党で長安で権勢を振るっていた李催から逃げ出した献帝をいち早く受け入れた。これが大きかった。これで皇帝の名の下で大義名分はなんとでもつけられるからだ。袁紹荊州劉表は同じく献帝が脱出したという情報は得ていたはずだが、受け入れる姿勢は示していない。これが後に大きく影響するのだった。やっぱり天下を取る人物には幸運が舞い込んでくるようだ。いや幸運を自ら招き寄せているのでしょう。
続く。