三国志の人物像~諸葛亮孔明の死後

2021年4月1日

五丈原でのにらみ合いの後、仲達は孔明が生きていたふりをして逃げ帰りました。
が、これで仲達は安泰でした。
蜀では、帰還した楊儀に意外な事実が待っていました。自分が孔明の後継者だと自負していた楊儀だったが、後継者は蒋琬になった。実は劉禅孔明五丈原で病臥中に使者を遣わせて決めていたのだった。楊儀は人間関係に問題があり適任ではないと孔明は考えていたのだ。が、蜀では孔明の死後は丞相は置かない事になっていて、蒋琬は各種の高官を兼任する事によって丞相と同程度の権限を持った。楊儀は不満で費禕に「こんなことになるなら、あの時、魏に下っていればよかった」ともらした。これが劉禅の耳に入り、流罪となり許しを請うが認められず自害する。
蒋琬は疲弊した国力の回復を目指した。北伐も考慮したが、重臣たちの反対もあり劉禅も却下したため中止になった。そのために姜維涼州刺史として北方に当たらせている。246年、蒋琬は病死した。費禕が後継者になった。費禕の死後は董允が後継者になった。董允劉禅に寵愛されている宦官の黄皓を押さえ込んでいた。が、董允も死ぬと黄皓の専横が始まって国は傾き始めた。
姜維は反対を押し切り何度も北伐を敢行して蜀の国力をさらに疲弊させている。黄皓の讒言により成都には帰れず、漢中に留まった。

一方、魏では仲達の文武に渡る貢献で権限はますます高くなり、反乱を起こした公孫淵を処刑した後、現地の15歳以上の者を災いの種になるからという理由で皆殺しにしているなど非常な面も見せている。が、曹叡の信頼は高かった。曹叡が亡くなると、魏では幼帝が次々と即位する。そんな中、司馬懿仲達は丞相まで上り詰めた。さらに呆けた振りをして自分に謀反の心ある者をあぶり出し処刑している。251年、王淩らの企てた、楚王曹彪を擁立するクーデターを密告により察知した。司馬懿は証拠を握ると、硬軟両面で王淩を追い込み、降伏させた。王淩は司馬懿が自分を殺すつもりであることを悟り、自殺した。また、曹彪も自殺を命じられた。この事件の後、魏の皇族をすべて鄴に軟禁し、互いに連絡を取れないようにした。その子、司馬師司馬昭も幼帝を傀儡としてのし上がった。兄の司馬師が亡くなり、司馬昭は晋公になった。263年、鍾会・鄧艾(とうがい)たちを蜀征伐に向かわせた。
蜀では、孔明の子である諸葛瞻とその子諸葛尚親子だけは鄧艾に交戦して敗死している。が、その他は戦わなかった。こうして蜀は魏に敗れた。
姜維鍾会に降り、鍾会をそそのかして鄧艾に冤罪を着せて司馬昭により処刑させている。そして成都に集まっている魏の将軍たちを拘束し、司馬昭に対して反旗を翻すように強要した。が、鄧艾の元部下たちによって、姜維鍾会は殺害された。
劉禅は安楽公に封じられ271年に病死した。司馬昭は264年に晋王となり、265年に亡くなっている。息子の司馬炎は265年に文帝から皇帝を禅譲され、晋の皇帝となった。280年、呉を滅ぼし中国を統一した。
が、その後八王の乱が起きて晋は傾く。やがて晋は北方から異民族の侵攻を受け昔の「呉」の国に亡命政権東晋」を建てるが、晋は滅び五胡十六国時代に突入して行くのだった。