tarobee8のブログ(戯言)

PC版ではこのページの右下に年月別のアーカイブのリンクがあります。スマートフォンでPC版を見るには1番下にPC版と書いてありますので、ブラウザー別の設定方法を参照ください。

ああ雪の12月14日

2020年12月14日

旧暦の今日12月14日の未明は赤穂浪士による吉良邸討ち入りの日だ。この日付は旧暦ですので、西暦に直したら1月下旬のようです。ウィキペディアによると
元禄15年12月14日深夜(西暦では、1703年1月30日)とあります。

12月14日の赤穂浪士による討ち入りの日。吉良上野介(義央 よしひさ)はなんにも悪くなかったのだ。かわいそうな虐められ役の浅野内匠頭(長矩 ながのり)は、かわいそうに幻聴と被害妄想に支配されていた統合失調症の妄想型か境界性人格障害の可能性が高い。これは根拠があるのですが、出所は明かせません。強いていえば浅野本家の当主・・・です。今は故人です。
吉良義央高家従四位上・左近衛権少将だったが、領地は今の愛知県の吉良町(吉良市になった)。吉良の荘と呼ばれる4200石の領主に過ぎなかった。旗本であるが、例に漏れず貧乏殿様。わずかな石高で使用人を養わねばならず、高家の役目である礼儀作法の教授料で賄っていた。が、大変な名君だった。洪水で悩まされていた地域に隣の領主と掛け合って一夜で堤防を造るのを陣頭指揮した。これで洪水は解消された。(このために他の土地が洪水になったという説もある)
今は黄金堤と呼ばれて残っている。そして新田も開発。塩田も開発した。決して搾取はしなかった。また領地を貧相な赤馬で巡回し、領民に気さくに声をかけていて慕われていた。赤穂浅野家が財政難なのを知っていて、勅使饗応役で多大な出費をしないように気配りしていた。これが赤穂浅野家を馬鹿にしたと逆に取られたのかも知れない。
将軍の綱吉は自分が将軍になるのに反対していた吉良家の当主を短気で心の病がある浅野長矩と勅使饗応役の師弟を組ませることで浅野と吉良を潰そうとした陰謀もあったという説もある。
浅野長矩は幻聴と被害妄想がひどく精神状態は勅使饗応役に耐えられる状態でない。いや、それでなくても普段からのお殿様としての負担がのしかかる。重責を背負わされてかわいそう。吉良義央は切りつけられた時は何が何の事だか訳が分からなかったはずだ。あっしも似たような経験がありますので、同情します。
が、喧嘩両成敗を建前としていた幕府にしては片手落ち。浅野長矩が即日切腹なのはおかしいし(口封じかも?)、吉良義央がお咎め無しも喧嘩両成敗になっていない。
本来なら何も悪くない吉良義央だが、喧嘩両成敗なら即日お役御免・隠居を申し付けられればその後の赤穂浪士による討ち入りはなかったであろう。
後日、養子の義周(よしちか 義央の息子で上杉家の養子に行った綱憲(つなのり)の次男)に家督を譲って、幕府より隠居を申し付けられ住居も江戸城から遠い場所に移転させられたが、もう遅すぎた。幕府が帳尻合わせに赤穂の浪人に討ち取られるように環境づくりをした節が窺える。
なんで吉良上野介が悪者として扱われるようになったのか。吉良家は旗本で高家筆頭のために幕府の一員。当時の幕府の将軍・綱吉が生類哀れみの令を出して民衆を苦しめていたのが災いして幕府・綱吉の身代わりに、人のいい吉良義央が悪者に仕立て上げられた可能性が強い。民衆からすれば「笑って許してもらえるから」・・・との思いでしょうが、馬鹿にしていますね。これは、あっしも似たような経験しています。とにかく冤罪の汚名は晴らさねばと考えています。
また両者の名誉のためにも申しておきたい。浅野長矩に対して差別的発言をしているのでございません。当時の儒教の考えで長子尊属が定着していたので、殿様にならざるを得なかった長矩はかわいそうです。誰か身内で代わりに殿様になる方がおられなかったのか?荷が重過ぎました。
弟の浅野大覚がいましたが、当時は長男以外はよほどの事がない限り殿様の身分は相続できませんでした。
また当時でも心神喪失、乱心では減刑される可能性もあったが、取調べで否定している。長矩の性格上それは潔しとしなかったのかな?
また吉良義央は幕府からの命令で事件の直前まで、綱吉の母が従一位になれるように幕府の命令(柳沢出羽の守の意向)で京で朝廷と交渉していました。その際、京の公家たちから意地悪をされていました。二重にかわいそうです。吉良義央はなぶり殺しにされ首を切られ、しかも吉良家はお家断絶の処分。幕府の帳尻合わせも甚だしい。元々幕府の初期の対応がまずかっただけなのに、かわいそう。
なお、吉良家はその後、吉良義央の遠縁に当たる人が家督を継いでお家再興になっています。

出所は広島浅野家の当主の嫡流の・・・鳥類研究所の浅野家の当主(故人)から聞いたのと、浅野家の筆頭家老の上田家の前々代当主からです。N家は浅野家の家臣で浅野のお殿様の側近をしておりました。縁あって亡き父(N家の養子)が浅野家の庭園である縮景園に勤務していた時に上田家の当主に出会ったのでした。それが縁で上田家と縁が出来て浅野家ともご縁が出来ました。
今はその縁も切れています。