tarobee8のブログ(戯言)

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鎌倉幕府の成立

2022年2月21日

元暦2年(1185年)3月24日には、壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼすことに成功した頼朝は朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園、いわゆる平家没官領の支配権を要求して承認され、
後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領と呼ばれる所領を獲得した。また、平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・源義経と叔父・源行家後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜ると、
頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えて、その追討のために
東国及び畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升の兵粮米の徴収権を頼朝に与えることを求めた。いわゆる、文治の勅許である。
これにより鎌倉幕府が成立した。1185年の事である。

その後、頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた奥州藤原氏を滅ぼし、建久元年(1190年)11月、10万の兵を率いて上洛して、権大納言兼右近衛大将に任ぜられた
(位階は既に元暦二年(1185年)に従二位に叙され、文治五年(1189年)に正二位に昇叙されていた)。

これによって、三位以上の公卿に認められる、家政機関政所の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた公文所を政所と改め、官職・右近衛大将の略称である右大将に因み、
右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所としていた鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、
統治機構としての正当性を獲得したのである。建久2年(1191年)1月15日、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる吉書始を行い、
右大将家政所を司る四等官として政所別当大江広元、令に二階堂行政、案主に藤井俊長、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、問注所執事に三善善信、侍所別当和田義盛
侍所所司に梶原景時、公事奉行人に藤原親能他6名、京都守護に外戚で公卿でもある一条能保鎮西奉行人に天野遠景を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。
頼朝は京を離れる鎌倉に帰る時に、権大納言と右大将の職を返上して貴族たちを脅かせている。後白河法皇は頼朝が征夷大将軍でもないのに勝手に全国の武将を招集して
奥州平泉を攻めて奥州藤原氏を滅ぼした事で頼朝に上洛した時に征夷大将軍の官職を与えなかったと言われている。

建久3年(1192年)7月12日、頼朝は朝廷から征夷大将軍を宣下された。『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、
それを受けた朝廷で「惣官」・「征東大将軍」・「征夷大将軍」・「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した
征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。
この時代においては名誉職化していた征夷大将軍に、左大臣にも相当する正二位という高位で就いたことは、軍権に基づく政権担当者という意味合いが加わり、
これが幕府の主宰者に世襲されたことによって、鎌倉幕府は朝廷に代わる政権として名実ともに確立された。また、戦時において全国の兵馬を動員できる征夷大将軍への任命は、
頼朝に非常大権を付与せしめることを意味した。後に源頼朝武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。

このように、鎌倉幕府は朝廷の公的制度である荘園公領制を前提とし、朝廷から幾重もの権限承認、委譲を受け、成立した政権であるということができる。