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北条義時と承久の乱

2022年2月26日

北条 義時(ほうじょう よしとき、長寛元年(1163年) - 元仁元年(1224年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。北条氏の一門。鎌倉幕府の第2代執権。
伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。北条政子の弟。得宗家2代当主。

1219年に、源氏将軍が断絶すると、得宗の義時が鎌倉幕府の実質的な指導者となった。幕府と朝廷の対立が激化すると、1221年に後鳥羽上皇より義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、
幕府軍は京都に攻め上り朝廷を制圧。後鳥羽を含む3人の上皇を配流し、践祚していた後鳥羽の孫の懐成親王九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)を廃した(承久の乱)。

長寛元年(1163年)、北条時政(北条四郎)の次男として生まれた。母は「伊東入道の娘」。義時が15、6歳の頃に姉の政子が伊豆の流人であった源頼朝の妻となっている。
数え18歳となる治承4年(1180年)8月17日、義時は父・時政、兄・宗時と共に頼朝の挙兵に従うが、石橋山の戦い大庭景親に敗北して宗時が戦死する。
頼朝、土肥実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。時政義時親子は文献により途中経過が違うものの、
戦後甲斐国へ向かい甲斐源氏と行動を共にすることになる。10月13日、甲斐源氏は時政・義時と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、富士川の戦いに勝利する。
その後、時政・義時親子は頼朝のもとに戻る。12月12日、頼朝は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、義時も時政や他の御家人と共に列した。

養和元年(1181年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名のうちに選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)。この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「家子」と呼ばれて門葉(源氏血縁者)と
一般御家人の中間に位置づけられ、義時はその中でも「家子の専一」とされた(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)。
寿永元年(1182年)11月、頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、この事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、牧の方の父・牧宗親に命じて
広綱宅を破壊するという事件を起こす。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。
義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された。

兄・宗時が戦死したため嫡子になったとされるが、義時は『吾妻鏡』で北条ではなく所領とした江間の名字で記されることが多く、分家の江間家の初代であったとも見られる[要出典]。
文治5年(1189年)に時政の後妻である牧の方を母として生まれた異母弟の政範は16歳で従五位下に叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、時政は政範を将来の嫡子に考えていた
可能性もある。

元暦2年(1185年)、源範頼率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、葦屋浦の戦いで武功を立てた。文治5年(1189年)7月、奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、
近衛大将拝賀の随兵7人のうちに選ばれて参院の供奉をした。義時は21歳の時に長男・泰時をもうけていたが庶子であり、建久3年(1192年)9月25日、頼朝の仲介により
比企朝宗の娘で誉れ高い幕府女房であった姫の前を正室に迎える。そして翌年に嫡男・朝時をもうける。

頼朝存命中はそれほど表立つことはなかったが、頼朝死後に鎌倉幕府内の権力闘争が激化すると頭角を現してくる。

正治元年(1199年)の頼朝の死後、跡を継いだ2代将軍・源頼家の独裁を押さえるための十三人の合議制に加わった。梶原景時が失脚した梶原景時の変で義時の同母姉妹の阿波局が関わった。
建仁3年(1203年)、7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は頼家の乳母父で舅である比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて
比企氏を滅ぼした。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放する(比企能員の変)。時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、
10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任して実権を握った。『愚管抄』によると、11月になって襲撃から逃げ延びた一幡が捕らえられ、義時の手勢に殺された。
元久元年(1204年)3月6日、義時は相模守に任じられた。7月18日、頼家が伊豆国修禅寺で死去。『愚管抄』や『増鏡』によれば、頼家は義時の送った手勢により暗殺されたという。

この時期の北条氏による有力御家人排除は、時政・義時が一体となって行われたが、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱、続く牧氏事件で父子は対立するようになる。
6月、時政は娘婿である平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、畠山重忠を謀反の罪で滅ぼした。閏7月、時政と牧の方は実朝を廃して女婿の朝雅を将軍に擁立しようと画策。
義時は姉・政子と協力し、有力御家人三浦義村(母方の従兄弟)の協力を得て時政と牧の方を出家の上で伊豆国に追放し、さらに山内首藤経俊の子の通基に命じて平賀朝雅を京で誅殺した。
義時は父に代わって政所別当の地位に就いた。『吾妻鏡』では時政が後妻の牧の方の讒言により人望の厚かった重忠を謀殺して御家人たちの反感を買い、
義時は謀反など起こすはずがないと畠山討伐に反対したというが、これは父を追放した義時の背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であるとの説もある(吾妻鏡#畠山重忠参照)。
ただし、近年の研究では北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要があるとする説も出されている。
武蔵国の最有力在庁であった畠山排除と同時に発生した牧氏事件の背景には、元久元年(1204年)に乱の引き金となった北条本家の後継者・政範の急死があり、政範亡き後、
娘婿・朝雅を将軍に立てようとする時政・牧の方と、先妻の子である義時・政子らの確執があったと考えられる。
武蔵国は有力者の畠山重忠平賀朝雅の排除によって、義時が信頼する弟の時房が同国の守護・国司となる。朝雅誅殺後、儀式における序列は長年にわたり源氏門葉として
御家人首座にあった平賀氏(大内惟義)を凌ぎ、義時が第一位を占めるようになる。義時は常に政子と実朝を表面に立てながら、政所別当大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛らと
連携し、幕政の最高責任者として実権を握った。時政の性急な権力独占が多くの反発を招いたことから、義時は柔軟な姿勢を示し、時政一人の署名による下知状という文書形式は一時姿を消し、
御家人達の要望に応えた「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」との大原則を明示した。一方で北条執権体制の障害となる有力御家人に対する抑圧策を進めていく。
時政失脚直後の8月、下野国の宇都宮頼綱(時政の娘婿)に謀反の疑いありとして守護の小山朝政に追討を命じ、頼綱は無実であるとして出家遁世した。
承元3年(1209年)11月、年来郎従(伊豆国住民で北条氏の家臣、御内人の原型)の中で有功之者を侍に准じることを要望したが、実朝の反対により断念した。
同月には諸国守護人の職務怠慢をついて終身在職を改め、定期交替制にしようとしたが、千葉氏・三浦氏・小山氏など豪族御家人達の激しい反発を招いて断念している。
この頃から義時の地位は執権と呼ばれるようになり、次第に独裁的政治を展開して執権政治の基礎を築いていく。その後も有力武士への攻撃は続き、
幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を建保元年(1213年)2月、和田合戦において滅ぼした。義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と合わせて
幕府の最も枢要な職を独占し、北条氏の幕府指導者としての地位が定まった。乱の3年後の建保4年(1216年)には従四位下に叙し、翌年5月に右京大夫
12月に陸奥守を兼ねて父の官位を超えた。
私生活では比企の乱直後に姫の前と離別し、伊賀の方を継室に迎えて元久2年(1205年)に五男・政村をもうけている。政村は建保元年(1213年)12月、三浦義村を烏帽子親として元服し、
その際に義時の「鍾愛の若君」と呼ばれている。建暦2年(1212年)5月、姫の前所生の次男・朝時が将軍・実朝の怒りをかったため義絶し、駿河国へ蟄居させている。

承久元年(1219年)正月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍・実朝が頼家の子公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。
その日の拝賀式で、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったのは義時であったが、『吾妻鏡』によれば当日急に体調不良を訴えて源仲章と交代して自邸に戻り、
結果として源仲章は実朝と一緒に暗殺され、義時は生き延びている。この事や暗殺事件後の収拾策などから、実朝の暗殺は義時が裏で操ったという説や、
将軍親裁を強める実朝に対する義時・三浦義村ら鎌倉御家人の共謀という説もあるが、北条氏に対抗する三浦義村、または幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕という説もあり、
またそれらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解もあって、真相は明らかではない。
愚管抄』によれば、義時は実朝の命により、太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しておらず、自邸に戻ったとはされていない。
義時は実際には殺害現場にいたものの、目の前で発生した将軍殺害を防げなかった義時の失態を隠蔽するために『吾妻鏡』が曲筆したとする説も出されている。

事件の前年から、子のない実朝の後継者として後鳥羽上皇親王を将軍として東下させる事が検討されており、政子が上洛して卿二位と話が進められていた。
源氏の正統が絶えた事による幕府内での動揺は大きく、義時は頼朝の異母弟阿野全成の子で将軍の座を望んで挙兵した時元を討ち、また公暁に荷担したとの嫌疑で
公暁の異母弟禅暁を誅殺している。

実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請するが、後鳥羽上皇はこれを拒否し、皇族将軍東下問題と絡ませて上皇の寵姫である亀菊の所領の地頭廃止を要求してくる。
幕府方はこれを拒否して、義時の弟・時房を一千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、両者の態度は強硬で交渉は不調に終わる。ただし後鳥羽上皇は、
皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと妥協案を示した。幕府はやむなく皇族将軍をあきらめ、
頼朝の遠い縁戚(頼朝の姉は九条家に嫁いでいて、その孫に当たる)である摂関家藤原頼経を4代将軍として迎え入れた。もっとも、頼経は当時生後1年余の幼児であり、
直ちに征夷大将軍に任じられる状況にはなかった
(実際の将軍補任は7年後)。このため、政子が尼将軍として頼経の後見と空白となっていた鎌倉殿の地位を代行し、義時がこれを補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立した。

実朝死後の半年にわたる将軍後継者問題で、後鳥羽院政と鎌倉幕府の対立が先鋭化する。義時は承久2年(1220年)2月に義兄の伊賀光季を京都守護として派遣し、
娘婿・大江親広も京都守護として上洛させた。

承久の乱
一方、後鳥羽上皇は着々と軍備を拡張し、承久3年(1221年)5月14日、流鏑馬ぞろいと称して諸国の兵を招集すると、院政内の親鎌倉派を粛清して伊賀光季を殺害し、倒幕の兵を挙げた。
15日、義時追討の宣旨が全国に発布され、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命が出された。京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、幕府にとって容易ならぬ事態であり、
義時は生涯最大の難局に直面する事になる。

幕府では朝敵となる事に動揺する御家人たちに対し、尼将軍政子が頼朝以来の恩顧を訴える声明を出し団結させた。幕府首脳による軍議では慎重論も出る中、
大江広元の「防御では東国御家人の動揺を招く」という助言により、京への出撃が決定した。義時は嫡男・泰時を総大将として東海道から京都へ向けて軍勢を送り、
次男・朝時、弟・時房を大将軍として北陸・東山の三道から京へ上らせた。幕府首脳部の積極作戦が功を奏し、東国武士たちが続々と動員令に応じて、
総勢19万の大軍となって都へ攻め上った。道中、信濃国の武士市河氏が北陸道の大将軍朝時の到着を待たず積極的に進軍し、越後・越中の境、親不知付近を突破して前進すると、
義時はただちにその功を賞して「一人も残らず殲滅せよ。山狩りをしても召し捕れ。敵を掃蕩せずに功を急いで京を攻め上ろうとするな」と、意気盛んかつ慎重な司令を発している。

5月21日に鎌倉を発した幕府軍木曽川宇治川の京都防衛線を突破して、6月15日には京都を制圧した。義時追討の宣旨発布からわずか1か月後の幕府軍の完勝であった。

敗北した後鳥羽上皇は倒幕計画は自分の考えではなく近臣が勝手に起こしたものであると弁明したが、幕府は乱の首謀者たる後鳥羽上皇以下に対して極めて厳しい態度を取り、
後鳥羽上皇隠岐島順徳上皇佐渡島に配流された。倒幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。
後鳥羽上皇の皇子の雅成親王、頼仁親王もそれぞれ但馬国備前国へ配流となった。在位70日余りの懐成親王九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)は廃されて新たに
後堀河天皇が立てられ、親幕府派の公家・西園寺公経らを中心として朝廷の再編成が行われた。上皇側に与した武士の処分は最も厳しく大半が斬罪され、貴族も処刑・流罪・解官となった。
後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収され、後高倉院に寄進されたが最終的支配権は幕府が握っていた。公家政権の監視にあたる出先機関として六波羅探題が新たに京都に設置された。
京方の貴族・武士たちの所領30,000か所はすべて幕府に没収され、新たに東国武士たちが恩賞として地頭に任命された。

この勝利により、京方についた旧将軍独裁時代の勢力は一掃され、執権義時の幕府内での最高権力者たる地位が確定したのみならず、義時の主導する鎌倉政権が公家政権に対して
支配的地位を持って朝幕関係を完全に逆転させる事に成功したのである。こうして新たに展開された執権政治は、全国的政権としての新たな段階に進む事になる。

乱の翌年に陸奥守と右京権大夫を辞職し、無官となっている。

貞応2年(1223年)、将軍御所であった大倉幕府が手狭であることから拡張することが議論となっている。承久元年12月に発生した火災で三寅の邸宅とされた大倉御所と政子の邸宅で
ある亡き実朝の私邸が共に焼失したため、三寅・政子共に大倉御所の東隣の義時邸にて生活し、義時は大倉御所の西の大路を挟んだ反対側にある在京中の泰時に譲った邸宅
三浦義村邸の南隣でもある)に住んでいた(貞応2年当時、大倉御所に建物が再建されていたかどうかには議論がある)。義時はこの計画自体に賛同して、
政子を勝長寿院内に建てた御所に移しながら、最終的には陰陽師の判断を理由に計画を先送りにしてしまった。これは政子と三寅を引き離すことに成功させて自らの三寅への
影響力を強めると共に移転計画の利用して発言力を強めようとした三浦義村への牽制を意図していたと考えられている。

元仁元年(1224年)に入ると、義時は自身の健康長寿などを願って3月19日から100日間の泰山府君祭を開始した一方で、同じ日に甘縄山麓の南側で大火があり、
千葉胤綱邸まで類焼している。また、4月27日には九条兼実の要望を受けて、三寅の手習始の儀が行われて、義時は一条実雅と共に中心的な役割を果たすなど、精力的な活動を続けていた。

ところが、6月13日、義時は62歳で急死した。『吾妻鏡』によれば衝心脚気のためとされるが、偉大な幕府指導者の急死であったため憶測を呼び、
後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞(『明月記』)があった他、近習の小侍に刺し殺されたとの異説(『保暦間記』)もある。

なお、義時の別称は得宗と呼ばれ、以後の北条氏の嫡流の呼び名となった。得宗の語源は義時の法名にちなむとも言われるが、はっきりしない。
吾妻鏡』に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」とあり、近年北条義時法華堂跡の発掘調査が行われた。なおこの時代に義時クラスの者がやぐらに葬られた記録はない。

義時の墓は臨済宗建長寺派の北條寺境内にあり、泰時が建てたものと伝えられている。