tarobee8のブログ(戯言)

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三国志の人物像~諸葛亮孔明 Part3

2021年3月24日

江夏に逃れた劉備玄徳一行には、「劉き」が太守を務め1万の軍(水軍も含む)を持っていた。曹操劉備玄徳が連れてきて置き去りにした難民の救済などで進軍が遅れた。劉備軍にはついに追いつけなかった。が、孫権に降服を勧め、一緒に劉備玄徳を討伐しようと誘った。これに対して江南では曹操に降服すべしの意見が大半だった。断固として開戦を主張するのは、魯粛周瑜たちである。孫権は実は戦う事を内心決めており、魯粛に江夏にいる劉備玄徳の配下になった臥龍として名が聞こえた諸葛亮孔明を連れに行かせた。偵察という役目もあった。(名目は先主の劉表弔問のため)兄の孫策以来の重臣である「魯粛」「周瑜」に加え、諸葛亮孔明曹操軍不利の状況と味方の利を説いた。が、反対者が多い。が、意を決した孫権は開戦を決意する。
曹操軍23万のうち荊州軍は8万で降服したばかりで渋々従っているだけ。曹操が連れてきた兵も袁紹配下の者も多く、忠誠心は薄い。おまけに荊州軍以外の曹操軍の兵は慣れぬ南国のために疫病にかかっておりまともに戦える状態ではない。おまけに水上戦の経験がないかほとんどない。なので荊州軍に頼っている。対する孫権軍3万は地の利があり、団結力は上回っている。実数よりも戦力は拮抗しているのだ。
必勝を期すためには火攻めがいいが、この時期(晩秋~初冬)は北西の季節風しか吹かないといっていい。これでは孫権軍に対して北西側に陣取っている曹操軍に火攻めは出来ない。が、この年は当地で動植物に異常が起きていて間もなく東南の風が吹くのを孔明周瑜公瑾も知っていた。江夏に戻った孔明は夏口に劉備玄徳を樊口に2000の別働隊を置いた。赤壁・夏口・樊口と三段構えの態勢を孫権劉備連合軍はとっていたのだ。
208年12月、東南の風が吹いた。ついに開戦。まず、周瑜たちから戦いを仕掛け、緒戦で荊州軍を打ち破った。北岸に逃れた曹操軍に対して荊州の軍船に火をかけた。東南の風にあおられて火は船から陸上の陣屋まで焼き尽くした。曹操軍は大慌て。逃げる逃げる。ここで、劉備軍も動いた。水上戦では孫権軍に任せて、逃げる曹操軍に壊滅的な打撃を与えるのが目的だ。が、落とし穴があった。
実は、曹操の息子である曹丕が途中の街道を整備しながら遅れて陣営に駆けつけたので、父から怒られている。が、もしもの場合を想定しての事だった。そのもしもが今は現実となった。曹操軍は重装備を捨てて逃げ足が速い。追いつけない。しかも途中で川があり船が必要だったが、曹操軍は逃げた後に劉備軍や孫権軍が乗るであろう船をみな焼き捨てていた。とうとう曹操軍に壊滅的な打撃を与える事は出来なかった。焼けた軍船は荊州軍のものだし、戦死者や負傷者はほとんど荊州兵か病人。大敗した曹操にとってはダメージが少なかったのだ。江陵に逃げた曹操曹仁徐晃を江陵城に襄陽に楽進を残して北に帰っていった。

注:物語では、孔明孫権周瑜を焚き付けて開戦に向かわせようとして大活躍するのだが、実際は孫権周瑜魯粛も開戦論者だった。孔明が狙ったのは緒戦は孫権軍に勝たせておいて逃げる曹操軍に壊滅的な打撃を与え、天下三分の計を行うに邪魔になる曹操の大勢力を削ぐ事にあった。また勝敗を決する戦では孫権側に任せたが、劉備側も逃げる曹操軍に壊滅的な打撃を与える事により荊州の分配では有利になるのだ。曹操が壊滅的な打撃を受ければ、荊州は自ずと手に入るし、荊州孫権とシェアするにしても将来、西川(益州=蜀)を手に入れやすくなる。そうすれば劉備側にとって天下三分の計を確立する事になるからだ。こうなりゃ、曹操軍の及ばない荊州南部を孫権軍よりも先に分捕らねばならなくなったのだ。

注2:物語では黄蓋が苦肉の策を用いて・・・となっているが、正史三国志には出てこない。