tarobee8のブログ(戯言)

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三国志の人物像~諸葛亮孔明 Part2

2021年3月23日

諸葛玄が袁術の配下だったにせよ、諸葛玄は当時もう没落し崩壊が進んでいる袁術の領地には戻れる状況でない。また劉表の配下だったのであれば、孔明は襄陽に帰る(行く)しかない。袁術は名門を鼻にかけて人を見下してばかりの人だった。197年、袁術は愚かにも皇帝を称した。宮廷も建造した。袁術の人柄に加えてこれに呆れた人たちは次々に袁術の元を去っていった。やがて劉備玄徳に攻められ病死する事になる。
襄陽に戻った?孔明は、叔父の諸葛玄は亡くなり姉(妹?)の鈴は名門「龐家」の龐山民の嫁になった。後に龐山民は曹操に仕える事になる。荊州には名士がたくさんいた。その一人が「龐徳公」で劉表の再々の誘いにも応じず隠遁生活を送っていた。その一族の一人龐山民が鈴の夫になったのだ。また司馬徽という人物がいたが、これも劉表の招きに応じず、ひたすら人材育成にあたっていた。この人は戦乱を避けて龐徳公を慕って荊州に移住してきていたのだ。こういった戦乱を避けて荊州に移住して来た人は数多かった。やがて孔明司馬徽の門弟になる。孔明は弟の均と襄陽の郊外「隆中」に住むことになる。そこで晴耕雨読の日々を送る。学友には崔州平や徐庶元直がいる。孔明は自分の事をよく「管仲」と「楽毅」になぞらえていた。が、みんなから笑って相手にされなかった。認めたのは、前述の崔州平と徐庶だけだ。管仲楽毅春秋戦国時代の名宰相と将軍である。ひたすら王の補佐役に徹して国を盛り立てた人である。孔明が自らをその人物になぞらえたのは「自分には補佐の才能がある」のを知っていたためにそう嘯いていたのだろうか。孔明は20歳過ぎに地元の名士「黄承彦」の娘を嫁にもらった。孔明は身長8尺(184cm)以上もあったが、その娘も184cmあった。色は浅黒くお世辞にも奇麗だとは言えないらしかった。が、色んな便利な道具を考案して作るのが得意だったそうだ。黄承彦の妻の妹が劉表の夫人「蔡氏」だった。
そうこうして数年経った。袁紹の元から劉備玄徳たちが逃げてきて劉表の元に身を寄せた。200年のことだ。ひたすら守りに入って優柔不断・機に疎い劉表劉備玄徳はしびれを切らせていた。劉備玄徳の元には徐庶元直が度々出入りしていて親交があった。徐庶は度々「孔明」の事を玄徳に話していた。やがて劉表は病が重くなり寝込む事が多くなり、内部では後継者争いが繰り広げられていて劉備玄徳はいささか不安であった。そうした中、優秀な人材を欲していた劉備玄徳は孔明に会いに行く事にする。わざわざ孔明が留守と知って2日連続訪ねて、3日目には在宅していると知っていて3日連続孔明の家を訪ねた。3日目に孔明はいた。
物語の三顧の礼は相当大袈裟に描かれています。が、実際は留守だと知っていて3日連続して訪ねたのです。日本人から見たら不真面目なパフォーマンスだと思う人がいるかも知れませんが、中国をはじめ外国ではこうしたパフォーマンスは往々にしてあります。それほど「あなたを欲している」という意思表示なのです。
こうして劉備玄徳と諸葛亮孔明が出会いました。劉備玄徳は孔明に今後自分はどうしたらいいのかと尋ねます。孔明は有名な「天下三分の計」を説きます。それに納得した劉備玄徳は孔明に自分に出仕して欲しいと懇願します。孔明徐庶より玄徳の事はかねてから聞いていて「この人なら」と思っていたので快く受けた。この時劉備玄徳は数えで48歳、諸葛亮孔明は数えで28歳の事だった。
この頃、荊州では後継者争いを巡り、蔡夫人の息子「劉そう」が選ばれた。前夫人の息子「劉き」は身の危険を感じ、孔明に相談した。前々からややこしい事態を招く人物「劉き」を避けていたが、一計を案じられ相談に応じた。
かつて袁術配下にあった孫堅孫策孫権の父)が荊州を攻めて襄陽城を包囲した事があった。その中、孫堅に追われて逃げる荊州軍に黄祖という武将がいて、黄祖の放った矢が孫堅に当たり死んだ。黄祖は、袁術から上手く離れて江南に渡り勢力を拡張している孫策の領地と接する江南郡太守になっていた。揚子江に面した土地だ。が、父の仇と孫策から狙われていて、孫策の死後に孫権によって最近亡くなっている(殺害された)。その江南の太守に任じてもらい「黄祖の同窓会をしよう」とその地で呼びかければ黄祖の元部下たちが集まってくるでしょう。これなら襄陽からも上手く逃げる口実ができ、江南の地でも軍勢に守られるでしょうと助言した。
劉きは早速、劉表に江南郡太守に任じてもらい上手く襄陽から脱出した。
劉備玄徳は荊州の襄陽から少し離れた新野で曹操軍の先鋒と戦い破っている。が、劉表は病死し、「劉そう」は親曹操派の蔡瑁の傀儡(蔡瑁の甥になる)だ。この後やって来る曹操の大軍には自分たちだけでは太刀打ちできない。孔明は「荊州を乗っ取る」策を進言したが、劉備は「恩人の領地を乗っ取るのは忍びない」と断った。もう逃げるしかない。ここ荊州は平穏な地として他所から人が多く移住して来ている。劉備玄徳はそうした人たちに一緒に逃げようと呼びかけながら南に下っていく。民衆が玄徳を慕って数多く付いて来た・・・と物語ではなっているが、私見ではそうは思わない。逃げるスピードは遅くなるが、民衆と兵がごっちゃ混ぜで逃げると追ってくる曹操軍は手が出しにくいのだ。曹操は言われるほど残酷ではないのだ。しかも曹操は漢の丞相だ。民衆を殺すわけにはいかない。また民衆が置いてけぼりを食ったら飢えさせないために養わないといけないのだ。江南の地で待つ「劉き」目指して逃げるばかりだった。
途中、劉備玄徳と諸葛亮孔明は民衆の中に自分たちの妻や子供(孔明には子がいなかった)を紛れさせている。民衆を自分たちの都合で利用しているから、すまないという気持ちで家族を民衆の中に紛らせたのだ。趙雲子龍はそういった劉備玄徳たちの勝手さに面白くなかった。そして、民衆の中から劉備玄徳の甘夫人と息子、孔明の妻を探し出し、馬車に乗せて劉備玄徳たちに引き渡した。やがて劉備玄徳たちは、曹操が追いついて来たので民衆を置き去りにして大急ぎで逃げた。

注:趙雲子龍は物語ではこの時獅子奮迅の働きをして一人で数万の敵の中を突破しながら劉備の息子「阿斗=劉禅」を救い出した事になっているが、創作です。

注2:曹操軍が襄陽まで押し寄せて来た時、徐庶の母親は人質にとられ徐庶は止む無く曹操配下になった。(物語は創作です)が、国政に参加できるまでには出世していない。魏は人材が豊富だった証でしょう。また荊州北部に残った人材は曹操の元に吸収されました。