平氏と源氏のおおまかな解説

2022年2月7日

源氏と平氏は元々は皇族で親王や王が臣下に下って源姓や平姓をいただいたものです。源氏は21流派(あくまでも元々の臣下に下った
流派です)ありますが、ほとんどが
親王の出で村上源治が有名です。王が臣下に下った流派は少なく、平氏桓武天皇の子孫である桓武平氏のみで、流派は
葛原親王平氏の3流派と万多親王平氏仲野親王平氏賀陽親王平氏の流派のみです。葛原親王平氏はその子や孫が王が
臣下に下ったもので、高棟王平氏善棟王平氏と高見王の子の高望王平氏です。平氏の本家は高棟王平氏ですが、
源氏の多くが親王を祖としていて、平氏親王3流派で王が3流派で源氏の方が格が上です。

多くは公家として栄えて、中には清和天皇の第6皇子の貞純親王の子の六孫王経基は武家となり清和源氏として
この中からさらに色々な流派に分かれています。
また桓武天皇の皇子の葛原親王の第3皇子の高見王が早死にしたので高見王の子の高望王が4世王として臣下に下り従5位の下
上総介として子供たちを連れて任地に赴き任期が終わっても都には帰らずに現地に留まりました。そして坂東武者の棟梁となり、子ども達は
5世王として高望王と都で生まれ育っていて、坂東に来てから各々が国司鎮守府将軍などになって荒々しい坂東武者たちを束ねて武家の棟梁になり
武家としての平氏になりました。この中から平貞盛とか平将門が現れます。
平将門承平・天慶の乱を起こしましたが、それを鎮圧したのが従兄である平貞盛藤原秀郷(田原の藤太)です。平貞盛の4男の
平維衡が伊勢の国を本拠地として伊勢平氏として後のこの流派から平正盛が出て白河上皇に取り入って出世をして認められて
その子の平忠盛正四位下になり昇殿を許されて殿上人になり但馬の守他各国の国司を歴任して、白河法皇祇園女御の妹に
自分の子供を身ごもらせて平忠盛に嫁として押し付けて生まれたのが有名な平清盛です。忠盛は正四位上にまでなりました。従三位以上が公卿ですから、後もう1歩でした。
また平高望の子孫は坂東で繁栄して坂東武者になり、平忠常が乱を起こした際に源頼信が鎮圧して忠常は都に連れて行かれる途中で
病死してその子供2人は罪を許されて頼信の家人になり、それに従って他の坂東平氏も信頼の配下に付いて、平姓を改めて
所領の土地の名前やその他の名前に姓を変えました。坂東八平氏と呼ばれています。この中からさらに分家していて姓が変わっています。多数の坂東平氏が生まれた事になります。
最初に忠常の追捕使に任じられた平直方は同じく追捕使に任じられた中原成通とは仲が悪くて忠常の討伐に失敗します。
そこで選ばれたのが甲斐守をしていた頼信です。平直方は討伐失敗のために京を離れて伊豆の北条の地に移り住み北条と名乗りました。
信頼の子の源頼義の時に前9年の役の時に父が従えた坂東平氏たちを引き連れて参戦しています。源義家陸奥守時代に清原家の内紛に加勢した
後3年の役の時にも坂東平氏が活躍しています。後に、為義の子の義朝が坂東に父から追い払われた時に坂東平氏と強い絆を結んで
後に頼朝が平家打倒の時に付き従って大活躍します。鎌倉幕府御家人の初期の時代は御家人はほとんどが坂東平氏でした。
源平合戦も棟梁は平氏と源氏でしたが、結局は平氏同氏の争いでもあったわけです。伊勢平氏に対して坂東平氏は「自分たちばかりが
いい想いをしやがって・・・」と思って戦っていたでしょう。
なお、高棟王平氏からは後に堂上平氏と呼ばれる殿上人になる家系の人も出ています。これは明治維新まで続いています。
高棟王平氏からは清盛の後妻の時子やその妹の慈子や時忠がいます。いずれも伊勢平氏(平家)を押し上げる働きをしています。
慈子は後白河院の女御となり後の高倉天皇を産みます。そして以仁王天皇になれないように妨害して以仁王は後白河の息子や
娘たちが後白河が親王時代に王や内王だったのが親王内親王になっても王のままでした。慈子が後白河院と平家の仲を取り持ちましたが、慈子が亡くなると急に後白河と平家の
蜜月関係は終焉を迎えます。
時忠の父の時信は貧乏公家でした。時忠は幼少期を貧乏公家の息子として育っていたので姉や妹が清盛や後白河院の妻になり
地位も高くなって、「平家に非ずんば人に非ず」と言う名文句を残しています。
清和源氏は満仲の長男の頼光が摂津源氏の祖になり、次男の頼親は大和源氏になり、三男の頼信は河内源治になりました。
清和源氏として主に活躍するのは傍流の河内源治でこの流派から頼朝が出ています。以仁王の令旨を受けて挙兵した頼政
義光の子孫で摂津源氏になります。平治の乱の時には最初は義朝に与力していましたが、あまりにもの横暴ぶりに呆れて
「このような事では末代までの恥になる」と義朝を見限って清盛側に付きました。
なお清和源氏桓武平氏も分家が相次いで色々な流派が誕生しています。
日本の姓はおおまかに橘氏藤原氏平氏、源氏の4つが大元になっています。この中から分家に分家を重ねて色々な姓が出ています。
あなたの姓はもしかしたら、この中から出て来たものかも知れません。姓は色々なルーツがあります。
橘氏藤原氏平氏、源氏の子孫ではなくても日本には色々な姓を名乗るきっかけになった経緯があります。
我が一族は高望王平氏の子孫です。
なお源平合戦木曽義仲の大軍を迎え撃つように平宗盛から命じられた平頼盛は1万の兵を率いて大津で軍を構えていましたが、
そこへ平家の都落ちの報を聞いて、自分だけが置いてけ堀を食ったと使者を遣わせて宗盛に問いただします。
宗盛の返答はしどろもどろで話にならず、頼盛は「これはダメだ」と兵を引き京に戻って後白河法皇に助けを求めました。
後白河院は「それなら八条院を頼るがいい」と言われて八条院は因縁のある頼盛とその兵を受け入れました。
以仁王の皇子を捕まえるように清盛に命じられた頼盛は八条院に皇子を引き渡すように言うと八条院は「宮さまはおられません」と
答えました。すると以仁王の皇子が出て来て「ここにおる」と申して皇子は出家させられました。怨恨のある頼盛を引き受けた
八条院はたいそう優しい人のようです。後に、頼朝が義仲討伐のために範頼を総大将にした源氏の軍に対して「頼盛とその兵たちには
手出ししないように」と厳重に申し渡しています。頼盛の母の池の禅尼が清盛に1番強く頼朝の助命嘆願をしていたからです。
(池の禅尼以外にも大勢の人が頼朝の助命嘆願をしています。上西門院や頼朝の母などを始め後白河上皇や貴族たちや平家一門の
中からも助命嘆願が相次ぎました。)
命の恩人の息子をかばったのです。義仲追悼後に頼盛は頼朝に鎌倉に家人の宗清と一緒に招待されていますが、宗清は頼朝を
尾張で捕まえて殺さずに清盛の前に連れて行ったお陰で頼朝は命を助かりました。宗清は、頼朝を捕まえた事を恥じて辞退しています。
頼盛は息子と共に鎌倉に行き、歓迎されます。頼朝は宗清が来なかった事を残念がって「宗清のためにも土産を用意していたのに」と
残念がります。宗清は頼朝を殺そうと思えば殺す事も出来たのですが、捕まえただけで殺しませんでした。命の恩人です。
頼盛は頼朝に歓待されて、息子たちを鎌倉に残して京に戻り1186年に亡くなっています。頼盛の息子たちはその後、頼朝に
仕えて幕府の要職についてその子孫は鎌倉幕府が滅亡するまで、鎌倉幕府のために尽くしました。


源氏の流派
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F

平氏の流派
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F


清和源氏高望王流の平氏のおおまかな解説
https://nihonsi-jiten.com/genshi-heishi-chigai/

伊勢平氏(俗に言う平家)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B9%B3%E6%B0%8F

次回は別の視点から平氏と源氏の歴史を書く予定です。