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平清盛について

2022年2月12日

平清盛のことは以前に書いたが、簡略してもう一度。
1100年台前半、当時のワンマン経営者の白河上皇が愛人の祇園女御の妹にも手をつけて妊娠させてしまった。当時のお気に入りの武士に北面の武士である平正盛がいた。
その子の忠盛にも目をかけていた。年頃の忠盛に祇園女御の妹が懐妊しているのを知って忠盛の妻として押し付けた(自分の息子の鳥羽天皇にも同じような事をしています)。
そして産まれたのが清盛。母親は産後のひだちが悪くまもなく死亡。祇園女御の下で育てられた。後に忠盛に返されたが、なんと10歳で従六位・院の非蔵人(後白河法皇の秘書見習い)になった。
12歳で従五位下・左兵衛佐(さひょうえのすけ)、18歳で従四位下・中務小輔(なかつかさのしょうゆう)になった。この頃同じ北面の武士であった佐藤教清が出家する。19歳で長男の重盛も産まれた。次男の基盛が生まれたが、妻は病死。若い頃から、
あちらもこちらも立てるのが得意。貴族たちへは当然だったが、自分の部下にもたいそう気を配って立てた。どんなに身分の低い使用人にも顔が立つように大切に接した。
「清盛はよくよく慎みて いみじく計らいて あなたこなたしけるにこそ」
こうして決して敵は作らず貴族社会でも白河上皇の意向もあって異例の出世。武家という事で一段と低く見られていたが、貴族たちからの評判も良い。部下たちにも大いに慕われた。
「この人のためなら・・・」と部下たちは思っていた。29歳で正四位下・安芸守になった。この頃に厳島神社の巫女との間に男の子が生まれる。その子は部下の家の養子になっている。中務大輔も兼任していたが、
とんとん拍子の出世もここまでだった。白河上皇が亡くなり、鳥羽上皇の時代になっていた。父の白河に押さえつけられ続けていた鳥羽上皇は体制を一新。保元の乱がなければ、
清盛はせいぜい従三位になれたかなれなかったか?清盛は得意な遊泳術で鳥羽上皇の後妻である美福門院にも上手く取り入っていた。
平家の本家である堂上平氏平時信の娘の時子を後妻に迎えた。宗盛、知盛、重衝も生まれた。そして39歳の時に保元の乱を向かえる。
が、清盛には特筆すべき点があった。それは当時には珍しく合理的な考えの持ち主で、占いや神仏などは信じていなかったのだ。
信じているかのように見せておかないとまずいので上辺だけは取り繕っていたが。当時の貴族社会やそれに準ずる社会では神仏は絶対的な存在、占いは身を守る必需品と思われていた。
まさに信長のような人でしかも温厚な性格だったのだ。信長と決定的に違うのは、優しさ故の不徹底さと人間的な所かな。


平清盛といえば一般には入道頭の悪役のイメージのようです。。しかし、実際は違うんです。厳島の近くに住んでいるので弁護を。
入道になったのは50才で太政大臣を辞めた時。悪役のイメージが作られたのは最後の数年間のあせりによるものです。
若い頃から「あなたこなたする」才があり、上にも下にも気配りの利いた人だった。武士という立場もあり貴族達の機嫌を取らざるを
得なかったが、自分の部下はすごく大事にした。朝廷という腐った大企業での中間管理職という立場。現代的には理想的な上司です。
それで「この人のためなら」と皆が付いて行った。だから当時の平家軍団は強かった。トップに立つまでは。
不利な状況に固執せずに相手の弱点を突いた側面攻撃が得意。また、当時としてはいたって合理的な考えの持ち主。
が、平治の乱で勝ち残った後、自身の立場が高くなるにつれて身内も朝廟進出。太政大臣になった後は身内で政権を固めてしまった。
朝廷という既存の政権に割り込む以上、多数派工作が必要だったのだ。この点、頼朝は都から遠く離れた鎌倉にいて、若い時の経験から
都の恐ろしさを身に滲みて感じていたので新たな政権を作る事が出来たのだが。自分たち武士が朝廷の権威に弱い事を知っていただけ。
これと比較すると清盛はかわいそうだった。海千山千のひしめく都で生き残るために子弟を過保護にし過ぎてしまい、弱体化。致命傷になった。
最初は好意的だった貴族たちとも利害関係で不協和音。一門の者は貴族化してしまい、全国の武士からも反発。裏切り者も出てついには
強硬策を採らざる得ない状況になった。(対立する武士集団が消滅したのが原因。やっぱりライバルはいないといけないのです。独占企業が
繁栄し続けた例はない。ポストを奪われた貴族たちから見たら大企業の中に巣食う成り上がり者集団だったのでしょう。)
福原遷都は悪しき都と決別するはずだったが、失敗。ついに力では抑えきれなくなり後白河の策謀も手伝い、苦悩のうちに悶死。
平家物語はあくまでも物語なので悪役が必要だったのです。死人に口なしのとおり悪役にされてしまいました。かわいそう。
なお、俗に言う平氏伊勢平氏です。坂東平氏の開祖「高望王あらため、平高望」の子孫のほんの一握りです。源氏の家来であった坂東武
のほとんど(全部に近い)は実は元々は平氏です。平高望の子孫です。皮肉にも平氏同士の戦いで伊勢平氏坂東平氏に敗れたのです。
鎌倉幕府の重鎮は実はほとんど平氏で占められていたのですよ。北条氏ももちろん平氏です。
清盛の次男である基盛は実は実は厳島神社の巫女さんの息子で双子の兄だったというエピソードがあります。弟の方は他家に養子に出され生き延びたそうです。あくまでもエピソードで、重盛と同じ母と言うのが本当です。
清盛は宋との貿易に熱心で、莫大な利益を父の忠盛の時代から上げていた。また当時は貨幣制度が整っておらずに、砂金や佐銀などはあったが、貨幣と言う
ものはなくて、物々交換が取引の主流だった。そこで、宋から宋銭を大量に輸入して、貨幣経済になるように持って行った。
以降、日本には貨幣制度が広まって後に高利貸しなどを営む商人が現れて鎌倉の御家人が借金をして、返済に困ったいう事も起こっている。
どちらにせよ、清盛が貨幣経済を導入して広めたのは間違いはない。

ウィキペディアでは次のように書かれている。(一部補足してあります)
清盛は永久6年1月18日(1118年2月10日)に忠盛の長男として生まれた事になっている。
大治4年(1129年)正月、12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任。これについて中御門宗忠は驚愕している。清盛は同年3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが、
清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣源有仁随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。
祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの噂も当時からある。落胤説の事実性は乏しいものの、清盛が公卿を輩出したことのない
院近臣伊勢平氏の出身にもかかわらず、令制最高職の太政大臣にまで昇進したことは、王家との身内関係が当時信じられていたゆえといわれる。

若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟であった。
高階基章の娘との間に重盛・基盛が生まれるが、死別したと推測される。

保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。

久安3年(1147年)、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・平時信鳥羽法皇の判官代として、葉室顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していた。

この年6月15日、清盛は祇園社に赴くが、郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。
祇園社末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴するが、鳥羽法皇延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめた。
その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の平家盛常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。既に母を亡くし問題を起こした清盛に替わって、
母方の後見の確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。
しかし、久安5年(1149年)に家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。家盛の同母弟・頼盛は15歳の年齢差もあって統制下に入り
清盛も兄弟間の第二の者として遇するが、経盛・教盛に比べてその関係は微妙なものであり続けた。正四位下になり安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、
父と共に西国へと勢力を拡大した。また中務大輔も兼任している。
またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。

保元元年(1156年)の保元の乱では義母・池禅尼崇徳上皇の子・重仁親王の乳母であったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ後白河天皇側について
勝利をもたらし正四位上になり播磨守、大宰大弐となる。

信西藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・大炊御門経宗・葉室惟方などの反信西派を一掃することで、
急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝源重成源季実源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、
武家政権樹立の礎を築く。正三位、参議になった。
平治の乱信西憎しの藤原信頼源義朝とそれに信西憎しの貴族たちが信頼と義朝を支援して、清盛が熊野詣に出発して京を留守にした時に起こった。
道中の田辺でクーデターが起こったことを知った清盛は都に引き返す途中で与力する兵が次々に集まって大軍になり京に戻って来たので、義朝は手が出せなかった。
清盛は命婦を信頼に使者を遣わせて恭順の意を表して油断させた。貴族たちとっては清盛は頼りになる傭兵隊の隊長だった。
平治の乱で義朝らに人質として幽閉されていた二条天皇は隙を見て女装して脱出し、清盛亭に逃げ込み、清盛亭は臨時の御所になった。同じく院の書庫に幽閉されていた後白河上皇
逃げて仁和寺に助けを求めて匿ってもらった。二条天皇後白河上皇を失った藤原信頼源義朝は清盛亭に押し寄せて大乱戦になったが、清盛はあらかじめ兵を休ませておいて
兵力を温存していて、相手が疲れると次々に新手の兵を繰り出してとうとう義朝は後退し始めて、ついにはちりじりバラバラになって逃げて行った。
詳しくは保元の乱平治の乱で書きます。


平家一門の繁栄を願って発願された『平家納経』は、長寛2年(1164年)、厳島神社に奉納された。平家納経の見返しは豪華さで知られる。『観普賢経』は『法華経』の結経。
月岡芳年の武者絵。音戸の瀬戸における日招き伝説を描いている。
芳年武者旡類よしとしむしゃぶるい 平相国清盛たいらしょうこくきよもり』
月岡芳年が手掛けた縦大判東錦絵揃物『芳年武者旡類』の一図。1883年(明治16年)刊行の武者絵。
権勢を誇り、沈む日輪までも意のままにせんとする清盛。描かれているのは、音戸の瀬戸(1165年)の日招き伝説。

継室の時子が二条天皇の乳母であったことから、清盛は天皇の乳父(めのと)として後見役となり従二位、検非違使別当中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、
天皇上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。

久寿2年(1155年)、時子との間に徳子(後の建礼門院)が生まれ、後の承安元年(1171年)には後白河法皇の猶子として入内することになる。

応保元年(1161年)9月、後白河上皇と清盛の妻の妹である平滋子(建春門院)の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠平教盛立太子を画策した。
二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・坊門信隆を解官して平時忠を出雲へ左遷、後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、
二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の大炊御門経宗が帰京を許され、
6月には平時忠・源資賢が二条天皇賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。
さらに関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。

院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)に蓮華王院(三十三間堂)を後白河上皇のために造営している。
蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)に重盛を参議に任じて
平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。

後継者の六条天皇は幼少であり、近衛基実が摂政として政治を主導して、清盛は従二位、大納言に昇進して基実を補佐した。9月、平時忠が帰京を許され、
12月25日に憲仁親王親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。

永万2年(1166年)7月26日、摂政・藤氏長者近衛基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・松殿基房が摂政となる。
基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。清盛は藤原邦綱の助言により、殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を
後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には正二位、内大臣となった。

仁安2年(1167年)2月、清盛は従一位太政大臣になるが、太政大臣は福原開拓のために、わずか3ヶ月で辞任する。実は大腸に寄生虫が詰まって腸閉塞になりかけていて
後白河上皇は今、清盛に死なれては困ると清盛亭へ行幸してお見舞いしている。清盛の病気は治癒して延暦寺僧都により出家して入道となった。
こうして、平家と延暦寺は手を結ぶ事になった。
清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。

厳島神社海上社殿
厳島神社 客神社祓殿
仁安3年(1168年)、清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。
仁安3年(1168年)、清盛は病に倒れ、出家する。原因は「寸白(すばく。※条虫や回虫など人に付く寄生虫とそれによる病気)」で、清盛に付いたのは本人の証言に基づけば
絛虫(さなだむし)であった。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。
病から回復した清盛は福原に別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願であった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。

嘉応元年(1169年)、後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇藤原忠実が同日に
受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど
両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、
平時忠をして「平家にあらざれば人にあらず」といわしめた。
ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。

治承元年(1177年)6月、鹿ケ谷の陰謀が起こる。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。西光は処刑とし、
藤原成親は重盛の悲願によって死罪は免れ備前国流罪俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。ただし、実際に平氏打倒の陰謀が
あったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避するために行ったとする見方もある。

治承3年(1179年)6月、娘の盛子が死亡。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。(近衛基実正室は盛子であったため、基実の死後領地を所有していた。)
さらに7月、重盛が42歳で病死。するとまた、後白河法皇は重盛の知行国であった越前国を没収した。さらに、法皇は20歳の近衛基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、
8歳の松殿師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は憤慨する。

11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変であるが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、
藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。
後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。
清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。しかし、院政停止後の政権構想は拙いものであった。高倉天皇近衛基通平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、
結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた平頼盛・花山院兼雅の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である
左大臣藤原経宗、右大臣・九条兼実の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠四条隆季土御門通親などの能吏が清盛の代弁者となった。

治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。高倉天皇と徳子は「いとこ」同士の結婚であった。
名目上は高倉上皇院政であったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかであった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになった。

平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・以仁王の挙兵であった。以仁王は優秀であったが、平氏方である建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、
八条院の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。
以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺園城寺もこの動きに同調した。
この計画は未然に発覚し、清盛の手早い対策により、検非違使平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱が300騎の兵で追撃して、以仁王源頼政らを討ち取った。

しかし、寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれて平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、
6月に一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市和田岬付近)を臨む地への遷都を目指して、福原行幸を強行する。

しかし、以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国において木曾義仲が挙兵する。
これに対して、清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに撤退してしまった。

この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂起し園城寺延暦寺の反平氏分子と提携して、
物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、九州でも反乱が勃発、高倉帝や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも遷都を望まない声が高まり
、11月23日、清盛は平安京に還都する。

12月になると、清盛は平知盛平資盛藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏山本義経・柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する(近江攻防)。
次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺であった。清盛は背後の脅威を一掃することを決め、重衡を総大将とした大軍を南都に派遣、
12月28日、興福寺東大寺など南都の諸寺を焼き払った。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、この南都焼討では数千もの市民を犠牲とし、
同地方にある大仏の殆どを焼失させる惨事となり、清盛自身も「仏敵」の汚名を着ることとなった。

治承4年(1180年)末までには、平氏の勢力基盤である西国においても伊予国河野通清・通信父子、翌治承5年(1181年)には豊後国緒方惟栄臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、
伊勢志摩においても反乱の動きがあった。東国においても平氏方であった佐竹秀義などが頼朝によって討伐される。

このようななかで、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。これは天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた
新田部親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また、丹波国に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに、
越後国城資永陸奥国藤原秀衡源頼朝武田信義追討の宣旨を与えている。2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に
向かうことが決められていたが、清盛は27日に謎の熱病に罹って倒れた。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、
宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、
閏2月4日、鴨川東岸にある平盛国の屋敷(※後述)で死亡した。享年64。『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。
死亡した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べて
これを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示した。


平清盛
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