tarobee8のブログ(戯言)

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平将門について

2022年2月8日

桓武平氏の高望流平氏の祖である高望王葛原親王の皇子の高見王の子供)が早死にした父の代わりに899年に平の姓を頂き、
臣下に降りて平高望になり従五位下に叙せられて上総介に任じられた。臣籍に下ったばかりなので現地に赴任しなくても良かったが、
家族を引き連れて任地に赴いた。妻と息子たち(国香、良兼、良将、良文、良正)と娘たちを連れて行った。
上総は坂東では常陸、上野と並んで天領で守(かみ=長官)になるのは親王か王で実質的な長官は権守(ごんのかみ)か介(すけ)で
あった。高望は任期が終わっても京に戻らずに坂東武者にとっては貴種で坂東武者たちの棟梁になった。
国香は常陸大掾(だいじょう=大国の格上の掾)になり、良兼は下総介になり、良将は鎮守府将軍になり、良文は武蔵権守になった。
良正は官職不明。国香の息子の貞盛と重盛は京の都で藤原忠平の兄に仕えて家人になり、将門は藤原忠平に仕えて家人になった。
要領のいい貞盛は出世して行くが、将門は要領が悪くて真っ正直で、うだつが上がらなかった。将門は検非違使庁の下級の役人で、ある時盗賊を捕えようとして
切り合いになり、切り殺してしまった。が、その盗賊たちは藤原氏の上級貴族の子弟たちで、将門はピンチに立つ。
主君の藤原忠平の計らいで無罪になった。貞盛は従七位上で左馬小尉になっている。将門は検非違使の尉になる夢は捨てて坂東に
帰っていたが、国香や良兼や良正たち伯父や叔父たちに亡き父から相続した土地を奪われそうになっていて所領を巡ってのトラブルになり
とうとう戦になった。国香は敗れて敗走して亡くなり、さらに国香と親しかった源護(みなもとのまもる)ともトラブルになった。
さらに良兼や良正ともトラブルになり、戦になった。源護は朝廷に訴え出て裁判になった。裁判では将門は有罪になったが、恩赦で
釈免されたとも裁判で勝訴して無罪になったとも言われている。どちらにせよ藤原忠平の意向が働いたものと思われる。
その後も将門には色々なトラブルが付きまとった。富士山が大噴火して灰が降り積もって凶作になる中、将門の領地は灰を除去して
凶作は免れた。坂東中が凶作になる中を相変わらず、国司たちは重税を課す。坂東の豪族や農民たちは怒っていた。
貞盛は父の死はそれほど気にしていなかったが、主君が藤原忠平になっており、忠平により常陸の押領司に任じられていいる。貞盛は将門と争う気は最初はなかった。
将門と貞盛との間でも戦になっていて貞盛は命からがら京に逃げ帰っているが、途中で1番の家人の真備田真希(まびたのまき)が
戦死している。貞盛は秘かに坂東に帰って来ており、その間に武蔵の国では国司が不在で郡司の武蔵武芝(むさしのたけしば)が
国司の代わりをしていた。そこへ朝廷は興世王(おきよおう)を武蔵権守に任じて、源経基(*清和源氏の始祖)を武蔵介に任じていた。
興世王は武蔵武芝と争いになり、興世王は坂東の実力者である将門に仲裁をして欲しいと申し出た。将門が兵を率いて仲裁に行くと
それを見た源経基は将門が反乱を起こしたと勘違いして京に舞い戻って「将門が謀反を起こした」と訴えた。この時のどさくさで武蔵武芝は死亡している。
将門はすぐに坂東の各国の国司にお願いして実情を朝廷に報告してもらった。結果、経基が虚偽の訴えをしたとなり、経基は
幽閉された。将門は下総の国府に呼び出されて、朝廷に協力するのなら下総守に任じると言われている。
将門の唯一の味方の叔父である平良文は他の伯父や叔父と違い将門の理解者だった。将門の母親をもしもの時にと自分の館に引き取っている。この良文の孫が平忠常で謀反を起こして源頼信に降伏して、京へ向かう途中で病死して息子2人は罪を許されて頼信の家人になり、それがきっかけで他の坂東平氏たちも頼信の配下についている。
そこへ、将門の館に興世王が舞い込んできた。理由は新任の武蔵守の百済王(くだらおう)が興世王と不仲で居づらくなった興世王が武蔵権守を
辞任して都で好みのあった将門を頼って来たのだった。そこへ、今度は常陸の国でお尋ね者になっている藤原玄茂(ふじわらはるしげ)と
藤原玄明(ふじわらはるあき)兄弟が将門の館に舞い込んできた。2人とも藤原氏の末裔だが、鹿島に住んでいたので鹿島・・・
とも呼ばれている。常陸介の藤原維幾(ふじわらのこれちか)は玄茂と玄明兄弟を引き渡すように要求してきた。将門は拒否した。
天慶2年11月11日(940年1月3日)に兵を率いて常陸国府に向かい引き渡し要求の撤回を求めたが、拒否されて宣戦布告されて
戦になった。戦いは将門の圧勝で、維幾たち常陸国司を都に追い返した。そして、興世王の進言により「もうこうなった以上、
我々は朝廷に歯向かった事になる。こうなったら、各国の国司たちを都に追い返して坂東を自分たちの国にしましょう」と進言した。
そして、坂東中の国府に赴いては国司たちから倉庫のカギを受領した。国司たちは都に逃げ帰った。普段から朝廷に不満を持っていた坂東の豪族たちも呼応した。
将門は新皇(しんのう)を名乗り、坂東武者達を各国の国司に任命する除目(じもく)を行った。
将門は元の上司の藤原忠平に手紙を書いて「自分は天皇の子孫だから、坂東くらい分けてもらってもいいでしょう・・・」と言った内容だった。忠平は怒った。
これを知った朝廷は時の関白太政大臣藤原忠平たちは源経基を釈放して、1番最初に将門の謀反を報告したとして従五位下に叙した。
その間にも貞盛は下野の押領司の藤原秀郷(田原の藤太)を誘い、将門討伐を伺っていた。将門の兵が手薄になったのを知った
貞盛と秀郷は隙をついて大軍で将門に襲い掛かり、少人数で不利な将門は矢が目に刺さって落馬して絶命した。天慶3年2月14日(940年
3月25日)の事だった。享年38才(数え年)だったとも言われている。
将門の遺体は首を切り取られて手足も切ろ取られてバラバラにされていた。
朝廷では征東大将軍を立てて将門追討に向かわせようとしていたが、その前に将門は戦死していた。また源経基も兵を集めて将門
討伐に向かおうとしていたが、将門はすでに死んでいた。
時を同じくして都に進撃していた藤原純友には朝廷は従五位下に叙して兵を引かせている。
将門の首は京で獄門にかけられていたが、その首はある日飛びたって坂東に向かって首が落ちた場所は現在の東京の兜町
将門の首塚と胴塚が今もある。将門の生き残った兄弟姉妹たちは助命されている。が、兄弟姉妹たちの血筋は絶えている。
将門は国王神社に今でも祀られている。
平貞盛従五位上に叙せられて左馬助(さまのすけ)になりその後各国の国司鎮守府将軍になっている。そして四男の平維衡
伊勢に本拠を持ち、伊勢平氏として都に進出して伊勢平氏と呼ばれてその中から平正盛平忠盛平清盛が現れて俗に言う「平家」
と呼ばれています。
藤原秀郷は功績が大きいとして従四位下に叙せられて下野守になり後に武蔵守にもなっている。その子孫は安達盛長藤原経清(ふじわらのつねきよ、
藤原清衡の父)や足利家(後に源義家の子供が養子になり源氏に家を乗っ取られた)などがいる。
その後、藤原純友は再度反乱を起こすが、小野好古(おののよしふる)によって鎮圧されて惨殺されている。この時も源経基
純友討伐に向かっているが、小野好古に先を越されている。
小野好古の名前を頂いたのが有名な秋山好古である。伊予の掾であった藤原純友を討伐した小野好古にちなんで愛媛県出身の
秋山家は長男に小野好古の名前を拝借したと思われる。
また将門について書かれた将門記には2種類あり、将門は悪人だっというのと将門は善人で正義の味方だったと言う正反対の書かれ方がしてある。

平将門について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80

次回はどうして坂東平氏清和源氏の家人になったのか、そのきっかけを作った平忠常の乱の事を書く予定です。