1946年5月3日に東京裁判が始まった。A級戦犯の裁判です。
判事は戦勝国から選ばれて、A級戦犯には各々弁護士が付けられていて弁護に当たっていました。
A級戦犯は東条英機を始めとしてとして28名。
東条英機は宣誓供述書で「日本は南下してインドネシアの石油を確保してそれから西に向かいイギリスの補給路を断って蒋介石を攻略して志那事変も解決して西に向かうつもりが、そうはならなかった」と簡単に言えば供述している。
それは本当だった。昭和天皇は戦争には反対だった。それを日本にいるソ連のスパイは日本をアメリカと戦わそうと画策していた。ノモンハン事件は日本の大敗だったとなっているが、
ソ連崩壊後の資料流出によって、実は日本軍の大勝利でソ連は完敗だった。そのために
ソ連はスパイの風見章や尾崎穂積やゾルゲを使って近衛文麿に北進論を撤回させて南進論を勧めて近衛はそれにまんまと
乗せられた。1940年にナチドイツがソ連に進行して日本に東からソ連を攻めて挟み撃ちするように
頼んだが、日本は無視している。これでナチスドイツと日本の運命は決まった。
それが日本陸軍と海軍はアメリカと戦うのは避けて南下してインドシナとインドネシアを押さえて石油を確保してフィリピンは占領してもすぐアメリカに返して決してアメリカを
怒らされることはせずに、そこから西に転進して海軍はインド洋に向けて陸軍はインドに向けてインドの独立を支援して中近東でドイツ軍と合流してという作戦を秋丸機関が大本営に上奏して
立てていて、アジアの白人に植民地にされている国を開放して大東亜共栄圏を確立して・・・という作戦を練って昭和天皇は渋々戦争を承認した。
山本五十六は海軍の永野修身以外はアメリカとの戦争は大反対しているのに強引に真珠湾奇襲を画策していて強引に計画を推し進めていた。
1941年11月になって天皇陛下が渋々戦争開始に承認されてから滑り込みで山本五十六は真珠湾の奇襲をいかにも日本軍が南進して西に転じる作戦に役立つような
事を言って天皇陛下も陸軍も海軍も訳が分からない事態で承認された。
結局、真珠湾奇襲は戦術的には大成功だったが、戦略的には大失敗だった。
これによってアメリカという巨人を戦争に招き入れてしまった。これで日本の敗戦は決まった。その後の展開は知っての通りです。
陸軍も海軍も南太平洋に戦線を展開するようになって泥沼に陥ってしまった。
当初の作戦とは大違いだった。まさに東条英機の宣誓供述書の通りに正反対になった。
1945年8月15日に昭和天皇の玉音放送によって日本はポツダム宣言を受け入れて敗戦を認めた。1945年8月30日にアメリカ陸軍元帥のマッカーサーが
厚木基地に飛行機で降り立った。
昭和天皇陛下は1945年9月27日にマッカサーとの会見でマッカサーは天皇を戦犯にしたら大変な事になると分かり、天皇陛下は戦犯にしない方針を決めた。
そしてA級戦犯21名とB級戦犯とC級戦犯の裁判が始まった。東京裁判はA級戦犯の裁判だった。ドイツも日本も無条件降伏をしたために
裁判の結果は悲惨なものになっていた。戦勝国が敗戦国を裁くというほど恐ろしい事はない。
東京裁判は日本ばかりが悪かったという論点ばっかりで大東亜戦争(GHQにより太平洋戦争という呼称にされた)に賛成したアジア諸国の論点は無視。
また戦勝国のやった戦争犯罪には全く触れられず。
GHQによる太平洋戦争史観という日本が一方的に悪かったという事だけを大前提にしての裁判だった。
東条英機の罪状は「真珠湾を攻撃させて日米開戦をさせた」と言う内容だった。が、東条英機が真珠湾の奇襲を知ったのは11月下旬になってからで、それまでは知らなかった。
おまけに総理大臣になったばっかりで、近衛内閣の時に山本五十六と永野修身が決めた事だった。もう真珠湾の奇襲を止める時間がなかった。おまけに日米開戦は山本五十六と永野修身が画策したものであって、東条英機を始め日本陸軍は知らなかったし、海軍も反対していた。軍令部もアメリカとの戦争には大反対だった。
東条英機は山本五十六を止められずに日米開戦をする事になった事を真珠湾攻撃の2日前になり天皇陛下に泣いて詫びた。
日本の戦犯には通訳が付いていたが、肝心な重要な時には通訳してもらえずに、どういう内容で裁判が進行しているのかも被告たちには分からなかった。と言う酷い裁判だった。
東京裁判の始まった1946年5月3日にアメリカの元大統領のハーヴァート・フーバーが東京でマッカサーと会談して「この戦争は誰が起こしたのかのか」ということを語り合って
フーバー元大統領は「この戦争は狂人ルーズベルトが日本を追い詰めて起こした戦争で、狂人と言っても精神異常ではなくて、どうしても戦争をしたくてしょうがなかったんだ」と語って
マッカサーも同じく大いに同意したという事実がある。フーバー大統領は「フリーダム・ビトレード」という著書を書いている。「失われた自由」という意味だ。
フーバー大統領は出版したかったが、1964年に亡くなっている。
遺族は当時まだそのような本を出版するような状況になかったので死後47年経って2011年に出版された。
詳細は12月8日の「真珠湾は罠だった」をご参照ください。
東京裁判は本人のいう事も弁護士の言い分もほとんど認められていなくて、散々だった。それでもこの間違った裁判でも抵抗した判事もいた。有罪も多くても賛成7、反対4で、その他の有罪も
6対5で無罪に投票する判事が多かった。パール判事は全員無罪の判決をしている。
裁判中に松岡洋右は病死して永野修身は部屋の窓ガラスを破られて寒い中を肺炎になって病院に運ばれたが病死した。
1948年11月12日に結審しています。
正力松太郎はその手腕を買われてCIAにスカウトされて途中で釈放されています。
正力松太郎は戦後の日本の新聞やテレビを通じて3S政策などを行い、日本人を
スクリーン、スポーツ、セックスと言った手法を通して日本人を政治や経済から目をそらさせて
アメリカを日本人の憧れの国に仕立てていった。日本人をバカにするための方法だ。
また新聞に連載していた記事を太平洋戦争史という自虐史観を本にしてベストセラーにして
未だに東京裁判史観という自虐史観をまるで真実化のように学校やテレビや新聞では洗脳を続けている。
残った25名のうち、東条英機始め7名が死刑判決を受けた。他の戦犯は懲役20年で重光葵だけは懲役2年だった。重光は本当は戦争に関係なかった。1948年11月12日に結審しています。
重光葵の親友のイギリスのモーリス・ハンキー卿は重光を助けようと必死だった。
1948年12月23日の午前0時1分に7名のA級戦犯の絞首刑が実行された。わざわざ当時の皇太子陛下(のちの平成天皇陛下)の誕生日を狙って死刑執行をした。
さすがにマッカサーもやり過ぎたと思ったのか翌日の12月24日に残ったA級戦犯を全員釈放した。
何故か海軍は永野修身を除いてA級戦犯にならずにGHQと飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをしていた。
その後「東京裁判史観」という自虐史観が通説になって本当の歴史はウソで塗り固められた。GHQは二度と強い日本を見たくないという意志の元で日本人の精神の破壊を無理やりにした。
日本人に大嘘の歴史を押し付けて日本がすべて悪かった。日本は世界中で悪いことをしたという間違った事を戦後の日本人に刷り込んで行った。
GHQはもう去ったが、いまだにGHQに押し付けられたウソの歴史を学校もマスコミも教えていてさらに本当のことを言うと「右翼だ」「修正主義者だ」「陰謀論だ」と言われて相手にされない。
今になってアメリカのインテリ層では本当の歴史が分かってきていて未だに日本は宣戦布告なし真珠湾を奇襲した卑怯な国だと言えば
口では言わないが、心の中では「こいつは何も知らないバカだ」と思っている。
真珠湾の式典でも場外で若者が「リメンバー広島。リメンバー長崎。リメンバー東京」とデモをしているそうだ。
アメリカのインテリ層は本当の事が分かってきていて、一般の民衆はもう関心がない。
また最近はハワイでの観光案内では2004年に事実が公開されたのを機にルーズベルトが日本を追い込んで戦争に向かわせて、しかも真珠湾の奇襲攻撃も知っていてわざと
やらせた、太平洋艦隊の司令官にも秘密でやっていて・・・と観光ガイドは話しているそうです。
また、マッカサーは1950年10月15日にウェーキ島でトルーマン大統領に勲章を授与されて、その時の会談で「東京裁判は全面的に間違っていた」と告発して記録にも残っている。
日本だけが未だにGHQに押し付けられた東京裁判史観を信じて疑っていない。
日本人ってもうそろそろ本当のことを知ったらどうか。いつまでも日教組やメディアや左翼の言う大嘘を信じているのか。嘆かわしい。
日本人を洗脳している。けしからん!