tarobee8のブログ(戯言)

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廃仏毀釈を止めた岡倉天心(2022年6月16日)

NEW HISTORY(ダイレクト出版)のメルマガより

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これは、群馬県の山奥にひっそりと安置されている仏像です。

写真をひとめ見て、違和感を覚えたかもしれません。

写真を見ての通り、この写真内の仏像全て、首から上が破壊されています。

石でできた仏像に加え、同じように破壊されているので、経年劣化ではなさそう...
つまり、人の手によって、破壊されたようなのです。

これはどういうことなのでしょうか?

仏像が無惨に破壊された背景には、明治維新後に起きた、ある運動が大きく影響しています。

運動の名は「廃仏毀釈」はいぶつきしゃく と読みます。

「日本の宗教は神道だ」とし、仏像やお寺を破壊。仏教を無くそうとする運動でした。



「坊主にくけりゃ袈裟まで憎し」「坊主丸儲け」「地獄の沙汰も金次第」

こういった言葉ができたほど、江戸時代末期、仏教僧は、堕落しました。

冠婚葬祭の全てでお寺の世話になる必要があり、その都度、仏教僧はお布施を強要。

その様子は暴利の限りで、庶民にとって仏教は、信仰の対象ではなく、恨みの対象となっていました。

そんな矢先、明治新政府は、天皇を中心とした国を確立するべく、「神仏分離令」を発布します。

政府の目的はあくまでも、神道と仏教の分離であり、仏教の排除までは考えていませんでした。

しかし...政府の狙いとは裏腹に、「仏教を日本からなくそう!」という動きが庶民の間で高まることになります。

結果、仏教に関するものを、どんどん破壊していきました。

その被害は甚大で、、例えば創建1000年以上の歴史を持つ奈良県興福寺では、2000体以上にのぼる仏像や美術品が盗難・破壊され、
五重塔はたった25円で売却されてしまいました。(幸運なことに破壊はしなかったようです)

(引用:wikimedia

日本4大寺の1つとされ、敷地面積が東大寺よりも大きかった姿は、今は見る影もありません。

廃仏毀釈の一連の流れは、明治9年頃に終わりを迎えますが、その頃にはお寺、仏像美術はまさに“ボロボロ”の状態でした。

聖徳太子神仏習合を果たしてから、1500年以上にわたる歴史、仏像美術は日本から消えようとしていたのです。

しかし、この荒廃を食い止め、仏像・美術品を今に残す、大きな役割を果たしたひとりの男が居ました。

岡倉天心です。

(引用:wikimedia


岡倉天心は、明治維新が起きるまさに1年前に生まれます。
幼少期より勉学に励み、東京大学を卒業後、専修大学の教員として勤めます。

古社寺の歴訪を命じられたことから、日本美術を調査します。

そんな最中、奈良を訪れた際、廃仏毀釈後、放置されたままのお寺や仏像の、その居た堪れない姿を見て、疑問を覚えます。
「自国の『美』を誇りに 思わなければ真の近代化はない」

岡倉天心はこの想いで、美術作品の収集、保全に一生をかけて取り組むようになりました。

日本の美術作品を守るために「文化財保護法」を制定させ、国を巻き込んだ制度を作ります。

個人でも美術作品の収集に励み、結果、20万点以上の美術作品を破壊や海外への流出から守りました。

また、現在の東京藝術大学となる、東京美術学校の初代校長も務め、日本美術の繁栄にも貢献します。

岡倉天心の活躍なくして、今の法隆寺興福寺はなかったと言っても過言ではないのです。

生涯をかけて日本の美術作品を収集・保全した岡倉天心

そんな天心が一生をかけた、日本の美術作品とは、どういうものなのでしょうか?

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引用終了