選挙では政治の世界は変えられないようだ。
他の方法で世の中を変えて行くしかないのだろうか?
【選挙で政治が変わるという幻想】
選挙が終わると、いつものごとく開票が始まったとたんに当確が次々と出始め、投票率の低さが語られ、やはり政権与党が圧勝という結果が出る。やっぱりまた同じだと思いながら、投票に行かなかった人たちが悪いとか、政権与党に投票する人がこんなにいるなんて、だから日本人はバカなんだとか、いつもの話がつぶやかれる。それで結局、これが国民が選んだ結果なのだからと、認めさせられてしまうのだ。
だけど、少なくとも2012年の総選挙からずっと似たり寄ったりの結果で、選挙は一度だって公正に行われてはいなかったのではないかという印象がある。あの選挙のときは、国民の8割が反原発で、反原発派の新政党が支持率を急激に上げていた。選挙会場では、これまで見たこともないような長い行列ができていた。それでもメディアは、投票率の低さを報道し続け、結果は唯一原発推進を掲げていた政党が圧勝した。これはいくらなんでもあり得ないと多くの人が感じたし、選挙で不正が行われたらしい証拠もたくさん出てきていた。ある人はまったく同じ筆跡の票が大量にあるのを見たといい、ある人は出口調査の結果が途中で変わったり、投票者の数が途中から減らされていたのを見たと言っていた。開票のデータのカーブが不自然な上がり下がりを見せていたり、選挙区と比例区で普通あり得ない相違があったり、いろいろ奇妙なことがたくさん目撃されていた。
民主国家なのだから、選挙が公正に行われないわけがない。だから、それを疑うのはおかしいといったような空気が作られていた。テレビや新聞は、選挙結果がおかしいというのは勘違いだとか、投票所が混んでいたのは別の理由からだったとか、そういう情報をせっせと伝えていた。選挙が不正だったなどと疑うのは、妄想にとりつかれた頭のおかしな人間なのだと言わんばかりだった。
私にとっては、2012年の総選挙が、選挙不正というものが現実に行われているのだということを認めさせられた初めての選挙だった。それまでの選挙もまったく公正に行われていたというわけでもなかったのかもしれないけれど、あの選挙で目の前にはっきりと突きつけられてしまったという印象があった。日本が民主国家だというのは、見せかけにすぎなかったのだ。私は日本人であることばかりか地球人であることすら恥ずかしくて、地球から去って行ってしまいたかった。
このときの選挙でも、不正を示す証拠が多々出てきていた。夜中に裏口から投票箱が搬入されるのを監視カメラが捉えていたり、同じ投票用紙を何度も開票機にかけていることを示す映像が出てきたりした。集計コンピューターはインターネットに繋がっていて、どこからでも操作できる状態だったことも確かめられた。
「2000のラバ」というドキュメンタリー映画が公開され、「ラバ」と隠語で呼ばれる票の運び屋たちが、一人で何通もの投票用紙を投函していたことが示された。街のあちこちに設けられた投票箱はヴィデオカメラで24時間監視されていたのだけれど、そこには一人で何通もの封筒を投函する人の姿がたくさん映っていた。もちろん、家族の代理人として投票用紙を投函することは許可されているのだけれど、この「ラバ」たちは一日に何ヶ所もの投票箱をまわって、一ヶ所につき2通とか3通とかの封筒を投函していたことがわかった。
今回の参院選では、選挙の二日前に政権与党の元首相が銃撃されるという事件が起こり、選挙前日には主流メディアが一日中元首相の功績を讃え、遺志を継ぐべきだというような話が語られていた。数多くの悪政が非難された人物でもあったのだけれど、亡くなった人なのだからと、責任を問う発言もなく、ただ偉大な政治家であったという話ばかりが一日続いていた。その様子を見ていて、これは同情票が集まったとして、政権与党を圧勝させる計画なのだろうと思っていたら、案の定その通りの結果が発表された。
選挙期間中には、選挙で国が変わるのではないかという期待が高まる。そして、選挙にいくべきだとか、誰に投票すべきなのか、とかそういう話がしきりと交わされる。どこの党が支持率が高いとか、議席を増やしそうだとかいうことが語られる。だけど、結果はいつも同じなのだ。たとえ街頭演説にほとんど人が集まっていなかったとしても、いつも政権与党が圧勝することになっている。
そして、選挙が終わったら、これも国民が選んだのだからしかたがない、と言うのだ。すべては国民がバカだからなのだと。
こうしたことを見ていくと、選挙というのは、政府を選んでいるのは国民なのだという幻想を作り出すためのイベントにすぎないのじゃないかと思えてくる。本当には、政府を選んでいるのは、裏で選挙を操作している人たちであり、メディアや政治家に資金を出しているグローバル金融エリートたちだ。それをあたかも民主的に決められているように見せかけるために、選挙をやり、投票することで政治に参加しているという感覚を与えている。そして、その結果を人々が自分たちの選択だと思い込み、自分たちを責めるようにだ。
そうした中で、世界各国で抗議活動をしているグループが、政治的にも活動しようと政党を立ち上げたのだけれど、こうした多くの政党に共通しているのは、選挙結果をあまり重要視していないということだ。
候補者を立てて、選挙運動をして、議席を獲得し、とやっていても、結局のところ議会で多数決で押し切られるのだから、政治を変えるような力にはならない。ただ選挙活動をすることで、政治に参加したような幻想を作り出すだけのことだ。
そうしたことよりも、むしろ人々に必要な情報を伝えたり、身を守るために法的に何ができるかとか、どこで相談が受けられるのかとか、そういうことを伝えたり、抗議活動を組織したり、そういうセンターとして機能させようとしているところがある。つまり、草の根的に活動する組織としてだ。
たとえば地域の学校である問題があるというとき、多くの人はどこそこの役所に行って訴えるとか、政治家にかけあって動いてもらえるように頼むとか、そういう解決策を考えるのだけれど、それはDS的なやり方だ、とサイモン・パークスが言っていたことがあった。そこで、DS的なやり方、という表現を使っていたのが、私には印象的だった。
彼はそんなやり方ではなくて、その学校に行って、校長と話し、やり方を変えてもらうように言って、それから地域の受け皿を作って、というようなやり方を自分ならするだろうと言っていた。それがつまり、DS的でないやり方だということなのだ。
DSというのは、つまり世界中の政府を裏で操っている組織なのだけれど、彼らは人々が役所だとか政治家だとか、そういう政府機関を通して行動を起こすように仕向けたいのだ。それならば、彼らが操作することができるからだ。選挙に勝って、議員を送り、それがある程度の多数にならなければ、政治を変えることができない、と人々が思い込んでいるかぎり、彼らは人々を自在に操ることができる。
何度となく同じことを経験して、もういい加減に私たちは選挙で政治を変えられると思うのをやめるべきなのではないかと私は思っている。選挙に勝たなければ政治を変えられないと思うのをやめて、政府に頼らないでできることをどんどんやっていくようにしたらいいのじゃないかと思う。政治に参加するとは、選挙に行くことではない。そうではなくて、自分たちが住む社会が、自分たちの力でできているということを意識して、独自に動いていくことじゃないかと思う。
私はこの選挙が、そうした意識の転換になったのではないかと思っている。政府が変わらなければ、世の中は変わらないと思うのをもうやめて、この世の中を自分たちの手に取り戻すこと。そうなってこそ、本当に世の中は変わっていくと思うし、そうなったら政府がどうであれ、私たちはそれに支配されないで生きていくことができるんじゃないかと思う。世の中は、選挙とかクーデタとか革命とかで変わるのではなく、本当はそんな風にして変わっていくのじゃないかと思う。
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画像は、熊野のおながみの森の磐座。ルートチャクラのポイント。
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引用終了
スターリンの名言にあります。
「投票する者が決めるのではない。票を数える者が決めるのだ」
と。
いくら選挙に行っても開票操作されてはただの儀式ですね。
中学生の時に保健体育の教室の授業で、体育の教師が「民主主義と何か?」と生徒たちに問うと。ある生徒が「多数決です」と言いました。
教師はすぐに「それは民主主義ではない。それは多数決専制主義と言うんだ」と言われた事が昨日の事のように思い出されます。