広島原爆祈念日
1945年(昭和20年)8月6日未明、アメリカの偵察機が原爆投下候補地(10都市以上
あった)を偵察に複数来ました。その中で晴れていたのは広島市のみ。
これで広島の運命は決まった。もし広島市が曇っていたら第一候補の広島市は
外されて、他の第一候補地の長崎市か小倉市か新潟市に原爆が投下されていた
であろう。
1945年(昭和20年)8月6日の朝、8時15分に広島市の上空600mで原爆が爆発しました。
テニアン島から飛び立ったB29エノラゲイ号によって8時13分にT字型の相生橋を
目標にパラシュートでウラン型の原爆を投下して、一目散に逃げました。
いつもはB29は高度1万メートル以上から爆弾を投下しますが、目標に正確に投下するために
高度5000mか6000mで投下したそうです。だから目撃者によるとB29がハッキリと見えていたそうです。
この原爆「リトルボーイ」は目標地点の相生橋を外れて、産業奨励会館(今の原爆ドーム)の南東
200mにある島病院の上空600mで爆発しました。
この原爆によって14万人が即死かその年に苦しんで亡くなりました。
その後も放射能の後遺症で亡くなった方々は多数です。今でも後遺症に
苦しんでおられる方が多いです。
今では広島市でも原爆投下の年月日と時刻が分からない人が増えました。
この日は決して忘れないで下さい。
私の母も原爆投下直後に救助に行って被曝しました。(救護所で救護活動もした)。
放射能が満ち溢れていて爆心地に近い天満川の橋を渡ろうとしたら
人が立っていて「ここから先は入ったら命がないから入ったらいけん」と
制止されて迂回して入りました。何かに足が当たったので見ると黒焦げの丸太かと
思ったら人の死体だったり、体から皮膚が垂れ下がって幽霊みたいに人が歩いて
いたり、死体にうじ虫がわいていたり・・・川には死体がたくさん浮いていたり
とかすざましい惨状だったそうです。
建物は極一部の鉄筋のを残して全部破壊されて消滅していたそうです。
見渡す限りの焼野原だったそうです。
祖母の実家はちゃぶ台を囲んでみな骨になっていたそうです。富士見町です。
母の実家の段原は(疎開していた)比治山の陰に入っていて被害が比較的少なかった
そうですが、そのために戦後に生き残った人々が家や土地を不法占拠して地主さん達は
その後困ったそうです。母もその1人です。
段原には母の姉が嫁いでいて、本家もありましたが、全員なんとか命はありました。
広島に投下された原爆は凄く大きくてB29の装置を数々取り外してやっと飛び立てる
重さでしたが、リトルボーイと呼ばれていました。威力は0.02メガトンでしたが、
それでもすざましい惨状になったのですから、10メガトンや100メガトンの水爆なんて
とても恐ろしくて想像が出来ません。
母は原爆や救護活動の話をよくしてくれました。
爆心地は今の原爆ドーム(当時は産業奨励会館と呼ばれたモダンな建物でした)の南東
200mにある島病院の上空600mです。相生橋のすぐ北東には護国神社があって、第5師団の駐屯地
でした。爆心地から数キロメートル南東の翠町に暁部隊が駐屯していて被曝しながらも
爆心地に駆けつけて救護活動をしたそうです。
原爆投下して一目散に逃げたエノラゲイ号は遠くからきのこ雲を撮影して、広島市の
上空に戻って街を見ました。町全体が煮えくり返っていると乗組員が言っています。
破壊された広島市全土の撮影もしています。
また原爆投下の以前に新型爆弾を投下するので非戦闘員の方は逃げて下さいと警告文を
街に投下したという情報がありますが、証拠としては残っていません。
私の母は他の人からその情報を聞いたと話していました。
原爆投下を指示したとされるトルーマン大統領は軍の幹部に広島市は軍事都市だと
言われてそれを信じていました。本来は京都市が原爆投下の第一候補の都市でしたが、
外されました。トルーマンは軍事都市に限って原爆を使用すると明言していましたが、
軍の幹部に上手く騙されてしまいました。
原爆投下の第一候補は広島市、長崎市、小倉市、新潟市でした。トルーマンはこれらの
都市が軍事都市であると騙されていたのです。トルーマンは軍事都市に限って原爆投下を
認めるとしていて、女性や子供たちを犠牲にしてはならないと言っています。
原爆投下の2発目の長崎市もマッカサーを長とする陸軍の幹部が勝手にやったもので、トルーマンは関与して
いません。アメリカの8月9日ののトルーマンのラディオ演説では原稿になかった文言が
書き加えられていてトルーマンはそれを読んだだけです。
トルーマンの真意ではなかったのです。軍が勝手に書き加えたのです。
その文言とは
原爆投下によってアメリカと日本の50万人の軍人が死ぬことなしに戦争の終結を
早めた・・・
です。
後のアメリカの言い分の原爆投下によって軍人の死者を最小限に留める事が出来た・・・
に通じています。アメリカ国民はそれを信じました。いつの世も庶民は騙される。
トルーマンは責任を感じていましたが、作り出された世論には勝てず。
3発目の原爆投下は軍に禁じましたが、本当の事は言えず。戦争は終わりましたが、
最後まで本当の事を語らずに88歳で事実をあの世に持って行きました。
なお3発目の原爆は小倉市に投下されることになっていました。
なお、トルーマン大統領は原爆はパールハーバーの100倍返しだとも言ったそうですが、定かではありません。
また日本人を「猿」と呼んでいてバカにして戦後の日本人を徹底的に骨抜きにして2度とアメリカに歯向かえないようにと
GHQのマッカサーに指示を出したそうですが、定かではありません。
長崎に投下された原爆をチャーチルのあだ名の「ファットマン」というのには由来があります。
実は原爆の開発をイギリスがしていたのですが、イギリスは毎日ドイツの空襲に遭っていて
原爆開発を着実に進めません。そこでアメリカのルーズベルトに呼び掛けてアメリカに原爆を
開発させて実際に原爆が完成しました。ルーズベルトは認知症気味でチャーチルに利用されて
脳内出血のために亡くなって、副大統領のトルーマンが大統領になって初めて原爆の存在を
知りました。学歴のないトルーマンをルーズベルトはバカにしており、トルーマンは蚊帳の外でした。
ルーズベルトの存命中に原爆はドイツではなくて日本に投下しようとチャーチルは決めていて
認知症気味のルーズベルトは承諾してしまい、トルーマンがチャーチルの意思通りに日本に
原爆を投下したのです。これにも裏話があります。
そしてルーズベルトの周囲はソ連のスパイでいっぱいで、原爆の機密情報はソ連に漏れていたのです。だから終戦後、ソ連はすぐに原爆実験に成功しています。
さらに水爆もアメリカのすぐ後に実験に成功しています。ルーズベルトが無くなってトルーマンが大統領になった後も、
ソ連のスパイはアメリカ中枢部にたくさんいて情報は漏れていたのです。
また原爆投下の張本人はアメリカ陸軍でした。アメリカ陸軍は海軍や海兵隊が大きな戦功を立てているのに
陸軍だけは(マッカサーが陸軍の太平洋方面の司令官だった)たいした功績も立てられずにいたので戦後をに陸軍が冷遇されるのを恐れて原爆投下を
事実上、自分たちの利権を守るために投下したというのも本当です。上手くトルーマンを騙して原爆投下を実行したのです。
当時は空軍はありませんで、戦後に陸軍と海軍からアメリカ空軍が派生したのです。
なお、チャーチルはノルマンディー上陸作戦を1942年か1943年にする予定だったのをアメリカの原爆開発の時間稼ぎをするために1944年の6月6日に延期させました。
実際には悪天候のために翌日になりましたが、原爆投下はチャーチルがどうしても広島と長崎に原爆を落としたかったのです。これは確かです。
なので日本から天皇を中心とした国体護持の降伏の申し入れが何度もあったのに拒否したのです。