tarobee8のブログ(戯言)

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父の誕生日

2021年10月30日

今日は父が生きていれば、98歳の誕生日です。
実際には平成1年12月5日未明に亡くなりました。
父は農家の庄屋の分家の末っ子でしたが、母が父の最後の妻で跡取りになる事になっていました。
が、その母が亡くなって跡取りは異母兄の長男がなりました。
父は旧制廿日市中学(今の廿日市高校)を出て間もなく徴兵されて満州に行きました。
蒋介石軍はアメリカから援助してもらっていましたので最新兵器があり、機関銃対鉄砲では勝負にならずに
いつも蒋介石軍相手にいつも敗走していたそうです。ある日、中国人の女スパイが捕まって、上官は父にそのスパイの首を切るように命じました。
父がためらっていると上官は「お前が切らんかったらお前の首を切るぞ」と言うので仕方なく父は女スパイの首を切ったそうです。
当時も今もスパイは捕まれば死刑が当然ですが、今の日本は昔と違いスパイ防止法がないためにスパイ天国になっています。
満州は凄く寒くて外でおしっこをしたらおしっこが出るた瞬間に凍ったとか言っていました。本当かウソかは分かりません。
その後、父は輸送機に乗って太平洋のある島に配属されました。サイパン島だったそうです。もう食料も乏しく、蛇も大きなものは食べ尽くされていなくて、小さな蛇を捕まえて窯のお湯で茹でて食べていたそうです。
また芋虫や青虫も貴重な食糧だったそうです。下痢をしたらナメクジを焼いたのを食べたら下痢が止まっていたそうです。
またアメリカ軍の機銃照射は済様しくて死んだ味方の兵士の体を頭の上に載せて球をかわしていたそうです。
ある日、機関銃の弾丸の破片が脚に刺さって野戦病院に入院していて、幸いにも日本の医療船が来てその船に乗って日本に帰れました。
後で知ったのはその船がサイパン島を出た最後の日本船だったそうです。宮崎の病院で終戦を迎えたそうです。
戦後、父は広島県の職員になり、廿日市の教育事務所に勤務していて母が教科書の隅塗り事件で怒って教師を辞めて
教育事務所に転勤していました。母は小柄でも超美人で胸は大きくお尻も大きく腰は括れていて父は母に一目ぼれしました。
そして父の猛アタックが始まりました。母は嫌がっていたそうですが、父が養子でもええけえと言いだして終いには「お母さんの面倒も看るけえ」と言い
それが決め手になって母が父のプロポーズを受けたそうです。
父はN家に婿養子に来ました。2人の間には男の子3人、女の子1人の計4人子供が生まれました。
父は非常に子煩悩で私の小さい頃は兄とよくどこかに連れて行ってくれて、兄が大きくなると今度は私と妹をよく職場の縮景園に連れて行って昼ご飯はいつも食堂に
連れて行って食べていました。
当時、父は原爆で滅茶苦茶になっていた縮景園という浅野家の庭園に左遷させられていたようです。が、その縮景園で浅野家の筆頭家老であった上田家の
当主が上田流という茶道の師匠をしていて、時々縮景園でお茶会を開いていたそうです。父は上田家の当主に声をかけて仲が良くなり、
N家が浅野の殿様の側近の家柄もあって元上司の上田家と親しくなり、一緒に飲みに行っては帰りに妻が怖いからと一緒に付いてもらって帰っていたそうです。
何と母の家は上田家の当主が麻雀をしに来ていた巴堂(今は廃社です)の創業者の家の隣で私は毎晩、2階のトタンの屋根に行っては
おもちゃの双眼鏡や望遠鏡で何をしよるんかなと観察していました。
上田家の当主は父と一緒に帰る時にいつも自分が麻雀をしに来ている家の隣なのでビックリしていたと思います。
父は恐妻家で母の尻に敷かれていました。いつも「わしゃ養子じゃけえ」と嘆いていましたが、職場で大威張りでした。
再々、夜遅くまで飲んで帰っては朝寝坊して職場に電話して「今本庁(県庁)におるけえ、後で行くけえの」と言っていました。
それでも通っていたから昔はいい加減だったんですね。
また父はよく夢にうなされていました。ある日は目が覚めたら青白い顔をした女性が父の顔をじっと見つめていたそうです。例のスパイの夢でしょう。
また夢の中でよく「ホーイ、ホーイ。バカモン!」と言っていました。よっぽどストレスが溜まっていたのでしょう。よく真っ裸になって眠っていました。
またN家に養子に来たばっかりに段原の元賃貸物件の借主でその頃は県会議員になっていた社会党のY代議士が
父によく県議会で嫌がらせをやっていました。父はそれが悩みの種でした。N家に対する恨みをN家に養子に来た父にぶちまけていたようです。
また父はよく真っ裸になって寝ている事が多くて「裸正雄」と弟がニックネームを付けていました。
また父はよく戦争の時の話を面白おかしく語っては「ほら吹きオットー」と私や妹や弟たちは言っていました。実際に父はよくウソやホラを吹くのが上手で何が本当で
どこからがウソでどこからが本当なのかよく分かりませんでした。
父が言うには、戦争で死ぬ兵士はみな「お母さん・・・」とか言ったり、自分の妻や子供の名前を最後に言っていたそうです。
天皇陛下万歳は万歳突撃の時だけです。
またとうとう浅野家の当主が上田家の招待で広島に来られる事が多くなり、浅野さんを囲む会という会を創設して父も会員の1人でした。
父は浅野家の当主が広島に来られた時に宿泊に困らないように縮景園の園長と言う立場を利用して別荘を別の名目でコッソリと建てて元の殿様に便宜を図っていました。
また父は縮景園にあった原爆で消失した建物の数々を復元して浅野家の当主や上田家の当主から感謝されていました。
私が、浅野内匠頭吉良上野介との確執を浅野家の当主や上田家の当主から聞くことが出来ました。世間で語られている事は大ウソの作り話です。
毎年12月14日に「ああ雪の12月14日」で書いていますので、興味のある方はご覧ください。
また母はヒステリーが酷くて上田家の当主に相談したらしくて母を上田流のお茶の会に入門させて、以降母のヒステリーは徐々に和らいでいっていました。
また父は必殺シリーズの今は亡き藤田まこと演じる中村主水(なかむらもんど)が同じく「婿殿」でしたので同情相哀れむのでしょう毎週見ていました。
婿養子は辛いよ。米ぬか三合あれば養子に行くなと言う諺もあります。
現役時代から父は母からお金もロクに持たせてもらえずに、妹が「ゼロ円亭主」と呼んで揶揄していました。
Y議員からの嫌がらせはますますエスカレートしていて私はまだ定年までに1年あるが、辞職するように勧告して父が受け入れて辞職しました。
父には妹が早く結婚していて男の子の孫が出来ていたので、孫(私の甥っ子)と一緒に遊ぶのが生きがいになっていました。
また父はお酒が弱いのに大好きで、お酒でよく失敗していました。私は父と正反対でお酒にめっぽう強くて毎晩お酒を飲んでいても平気です。
夜勤の時はお酒は飲めませんが、平気でしたのでアルコール依存症ではないです。今は母の懇願で病院を辞めていてお酒は毎晩飲んでいますが、昼間から飲もうとは思いません。
その間に父は祖母が寝たきりになって認知症も出て来て父は義理の母の介護をしていました。そしてついに1985年5月1日の私の誕生日に祖母は亡くなりました。
父は母にプロポーズした時に言った言葉通りに親の面倒を看たのです。
また父は最初「タヌキの置物」から「パンダの置物」にニックネームが変わって、「パンダちゃん」とみんなが言っていました。
「わしゃ、生まれ変わったらパンダに生まれるんじゃ」と言っていました。理由は「かわいがってもらえるけえ」でした。
でも、みんなが父の事をバカにしていても私だけは父をかばっていました。父は私の事を「本稚児じゃ」と言っていました。父と私は似ても似つかない顔をしていて、
私は母にソックリな顔をしています。
父は私の家に来てよくビールを飲ませてくれと言っていて私は父がもう長くないのが薄々分かっていたので、今のうちに大好きなアルコール(ビールです。その他のアルコールは飲ましていません)を我が家で飲んでもらっていました。
後から妹たちが私を責めましたが、こういうケースではあれもダメ、これもダメではなくて、本人の好きな事をやらせてあげるのが1番だと考えています。
あの時私が断っていたら父はやりきれなかったでしょう。
その父もお酒?(多分ウィルスが原因だと思っております)が原因で肝硬変になり広大の医学部に通院していてある日、硬化療法と言う手術を受けることになり、私は大反対しました。
まだ治療法の確立されていない手術です。私は看護師なので危険だと分かっていたので止めたのですが、母が連帯保証人になっていてもう同意書を提出したそうでした。
父は手術を受けてから一時危ない状態になりました。が、持ち直して何とかなりました。
私は広大医学部の担当の医師が不在でしたので、ナースステーションの当時の婦長さんに父の事に付いて聞きたいと申し出て私の自宅の電話番号と
職場の電話番号を教えました。1989年4月の事です。が、いつまで経っても音沙汰なしです。もう退院したら元の私の職場の病院に
鞍替えするように父と母に進言しました。両親とも同意しました。
私は医療事件にするつもりは毛頭なくて純粋に父の現状を聞きたかっただけですが、逃げの一手ではねえ。
当時、広大医学部の担当の看護婦さんが何でも私の事を知っているそうで私の看護学校の同級生だったそうだとか聞きました。
私は直接会っていないのですが、2人がお見合いしたらと言う話になっていたそうですが、父が退院してH病院に鞍替えしてその話はウヤムヤになりました。
父は食べ物が喉を通らずに食べたいのに食べれないというジレンマに悩んでいました。飲み物なら何とか飲めました。
肝臓が悪いのに栄養が摂れなくてますます肝臓が悪くなる。これだから私は反対したのです。父は腹が減っても食べれないと言う生き地獄でした。
今ならゼリー食品でチューチュー吸うタイプの食品がありますが、当時はなかったのです。
H病院の父の親戚の当時の院長に聞きました。父の事に付いて本当の事を教えてくださいと。
H病院の院長は父と親戚です。院長は言いました。ハッキリ言って食堂の静脈瘤の硬化療法をして食堂の蠕動運動が出来なくなってそれで食べ物が通らない。
もし食べれたとしてももう末期症状で、長くて後5年、早ければ半年で食道の静脈瘤破裂で亡くなるだろう。親孝行したい時には親はなくと言う諺がある
から今のうちに親孝行しておくようにと言われました。もう成す術がないそうです。
でも普段から私は親孝行しています。その後、私は母を連れて出雲大社にお参りして父の病気を治して下さい。
もしそれが叶わないのなら父がなるべく苦しまずに安らかな死をお与え下さいとお祈りしました。
父が最後の入院前に私に言いました。遺言です。「わしはもうダメじゃろう。わしにもしもの事があったら、〇〇〇(私の事)お母(おかあ)の事は頼むの」と。
それから父の死後は母の相談相手になり、母と再々食事をして愚痴も聞いています。母の介護も母の莫大な財産の管理や経営や会計も私がしてきました。誰も協力してくれず。
賃貸物件の野良仕事も庭仕事も母宅の超広大な庭仕事も野良仕事も私がやってきました。長男である兄は何もせずに私のやっている事をさも自分がしているかのように立ち回って
人目があるといかにも親孝行しているかのようなパフォーマンスをしたりして卑怯の極み。
次男である私が長男の役目をして兄はとても長男の器に非ずです。
私は父との約束は守りました。
その後父はH病院に入院して母と私が交代で付き添っていて、私は朝H病院から自宅に戻ってから自分が勤務している病院に出勤していました。
が、もうダメだろうと兄弟全員と母と甥っ子が全員集合して1989年12月5日の未明の1時15分に静かに息を引き取りました。
食道静脈瘤の破裂でした。肝硬変という事になっていましたが、おそらく肝臓癌だったと思います。
父の通夜と葬儀は盛大でした。1210m^2の庭には入りきらずに南のアパートの3階までの廊下まで人がビッシリでした。
まるでヤクザの親分の葬式のようでした。
焼き場で父を焼いている煙が上がった時にそれまでこらえていた涙が溢れました。甥っ子が「ふ」とハンカチを私に渡してくれました。
甥っ子はまだ9才でした。母は相当ショックを受けていました。
その後しばらくしてある明け方、私の家のある2階の階段を駆け上って来る音がして玄関のドアがドーンと開いて父が「〇〇〇退院して今帰って来たぞ」と
嬉しそうに息をはずまして父が靴を脱いでいました。私はビックリしました。結局、夢でした。が、本当に父は帰って来たのです私の所へ。
今では父は祖父と一緒に私の守護霊になって私を守っていてくれています。ありがたいです。
父は滅多に夢に出てきませんが、母は時々夢に出て来て嬉しそうにしています。たまに威厳のある男の人が夢に出てきます。多分、祖父でしょう。
父は平成の最初の年に亡くなり、母は平成の最後の日に亡くなりました。
今頃はあの世で父と母はケンカせずに仲良くやっているかしら。