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平忠常の乱と河内源氏

2022年2月9日

平の忠常は祖父が高望王平氏の開祖の平高望高望王)の四男の平良文で、父は平忠頼
祖父は武蔵の国の村岡に住んでいて村岡五郎と称して、下総相馬郡の大半を所領としていた。忠常は祖父と父の広大な領地を引き継ぎ、
常陸、上総、下総に広大な所領を持ち、武蔵の押領司になり後に従五位下に叙せられて上総介になっている。上総介は自称と言う説もある。
系図では下総千葉郡にて千葉四郎と称した。京に上り藤原教通藤原道長の次男)に仕えていた形跡がある。忠常は強大な武力を背景に傍若無人に振る舞い、
国司の命に従わず租税も納めなかったとされる。

長和5年(1016年)以前から忠常は常陸の左衛門大夫惟基(平維幹?)と利権をめぐって抗争しており、忠常は惟基のことを「惟基ハ先祖ノ敵也」と述べている(『今昔物語集』)。
長元元年(1028年)6月、忠常は安房国国府を襲い、安房守・平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが受領との対立が高じたものと思われる。
朝廷は忠常追討を命じ、追討使として平直方と中原成道が派遣された。平直方と中原成道は仲が悪かった。
官軍を相手に忠常は頑強に抵抗した。乱は房総三カ国に広まり、合戦の被害と官軍による強引な徴発により大いに疲弊した(平忠常の乱)。
長元3年(1030年)9月、平直方と中原成道が解任され、甲斐守・源頼信が追討使に任じられた。長期にわたる合戦で忠常の軍は疲弊しきっており、
頼信は常陸の佐竹氏と手を結び忠常を房総半島に閉じ込めた。房総は戦で田畑が荒れて作物が取れなくなっており、兵糧攻めされた形になった。
長元4年(1031年)春に忠常は出家して常安と称し、子2人と従者をつれて頼信のもとへ出頭して降伏した。平直方と中原成道の征伐にも屈しなかった忠常が、
頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。
同年6月、京へ連行される途上の美濃国野上で病没した。忠常の首は刎ねられ、京で梟首とされたが、後に首は親族へ返されている。子の常将と常近は罪を許された。
平忠常の乱は、平繁盛やその子孫(常陸平氏)と忠常の一族(平良文平氏)の競合を背景に、常陸平氏と連携する都の平貞盛流による追討を借りた良文流に対する
私戦であったとする見方がある。
忠常の子孫は房総半島の有力武士として残り、後に鎌倉幕府御家人となる上総氏、千葉氏が出た。千葉氏は後に源義朝が父の為義によって坂東に向かわされた
時に義朝を厚遇して義朝は「上総曹司」とも呼ばれている。
なお、この戦の後で無罪になった忠常の子の常将と常近は頼信の家人になっている。
それに倣って他の坂東平氏源頼信に従うようになり、姓も平から所領の名前や他の名前に変えている。坂東八平氏と呼ばれている。
さらにその坂東八平氏から分家した坂東平氏はさらに別の姓を名乗り、多くの坂東平氏が誕生した。
こうして坂東平氏は河内源治とは主従関係になった。実際に、頼信の子の源頼義陸奥守になり、以前から先の陸奥守が苦戦していた安倍氏相手に
戦を仕掛けたのが先の戦から足掛け9年に及ぶ「前9年の役(合戦)」である。子の義家も大活躍している。この戦には頼信が従えた坂東平氏が参戦して活躍している。
頼義が勝って安倍氏は滅び、安倍氏の娘婿で最初は頼義に与力していたが、安倍氏に寝返った藤原経清は鋸引きの刑で殺されて、その妻と子は
頼義の懇願で参戦した出羽の国(今の山形県)の清原氏一族に引き取られている。頼義は戦の途中で新任の陸奥守が赴任してきた時に今は戦時中だからと
都に追い返して陸奥守を引き続き朝廷から承認されている。戦の目的は陸奥の国の金(きん)が目当てだっともされているが、砂金の利権を得ることもなく
任期を終えて京に凱旋している。頼義の長男の義家は後に陸奥守に任じられて、清原氏の内輪もめに加担して、国司は私戦には介入してはならないと言う
掟をを破り戦を起こした。後3年の役(合戦)と呼ばれている。義家は追い詰めた敵を包囲して水脈も断ち切って、降伏してきた兵を敵の目の前で
斬首して、戦慄させて、さらに水と食料を断たれた方は餓死したりして降伏したが、斬首されている。清原清衡は勝者側に付いていたので助かっているが、
後に清原氏の棟梁になり、義家を朝廷に「義家は私戦に加担した」と訴え出て、義家は陸奥の守を解任されている。この戦でも義家は坂東平氏を率いていた。
清衡は父の藤原経清の姓の藤原氏を名乗る事を朝廷に申し出て認めてもらっている。奥州藤原氏の始まりです。
義家の目的は陸奥の国の「金」だったが、父の時と同じく目的を達する事が出来ずに、京に帰って行き、途中で下野の足利家に自分の息子を養子にさせて
後に足利家は源氏に乗っ取られた。義家は陸奥の守解任後、10年間、新たな官職に付けずにいた。家人たちに恩賞を与える事が出来ずにいた。理由は戦で
朝廷に収める官物が滞っていたからだとも言われている。
各国の武士や豪農たちは義家に土地を寄進したが、朝廷は義家が貴族たちと同じく荘園領主になるのを恐れて禁止した。
義家が滞納していた官物を朝廷に収めてやっと官位が従四位下に上り、従四位上に官位が上がり、陸奥守解任後10年後に正四位下のまで官位が上がり
白河上皇の館に昇殿出来る地位になった(院の昇殿と言う)。
貴族たちは異例の待遇に反発したが、義家はみな恐ろしいので義家に面と向かっては意地悪せずに、目くばせをしていた。
また義家は弟の義綱とは仲が悪くて対立していて、一時は義綱の方が優位に立っていた時期もある。
晩年は跡取り息子の義忠が暗殺されて、犯人は弟の義綱と分かった。同じころに義家の子で対馬守になった源良親(みなもとのよしちか)が理由もなく
人々を殺しまくり、解任されて隠岐の島に流罪になった。が、島を脱出して出雲の国出で大暴れをしたりしていた。
義家は義親の子の為義を事前に義忠の養子にしていた。
朝廷は義綱討伐を為義に命じて、義親討伐を平正盛に命じた。為義の礼儀作法が幼稚で義親討伐に向かわせると行く先々で各国の国司と争いになるからと
平正盛に義親討伐を命じている。正盛は見事に義親の首を取り都に凱旋している。が、後に死んだはずの義親が現れたり義親と名乗る者同士が
争ったりと本当に正盛が義親を成敗したのかは不明であるが、その頃は正盛の朝廷での地位は確率されていたので影響はなかった。
一方、為義は義綱親子の討伐に向かい打ち負かして、義綱は出家して、義綱の子は全員斬首した。
義家の四男の義国も乱暴者で悪名高かった。河内源氏はこのように一族同士の争いが絶えなくて衰退していった。
義家のもう1人の弟の義光は甲斐守になり赴任して任期が終わっても京には帰らずに4人の息子たちに甲斐の国の各々の荘に住まわせて各々の荘の名前を
姓にさせている。甲斐源氏と言う。この中で有名なのが武田家である。


平忠常について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8#:~:text=%E5%B9%B3%20%E5%BF%A0%E5%B8%B8%20%EF%BC%88%E3%81%9F%E3%81%84%E3%82%89%20%E3%81%AE%20%E3%81%9F%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%AD%EF%BC%89%E3%81%AF%E3%80%81%20%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%20%E4%B8%AD%E6%9C%9F%E3%81%AE,%E6%AD%A6%E5%B0%86%20%E3%83%BB%20%E8%B1%AA%E6%97%8F%20%E3%80%82%20%E9%99%B8%E5%A5%A5%E4%BB%8B%20%E3%83%BB%20%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E9%A0%BC%20%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%80%82


源義家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6

次回は摂関政治を終わらせた後三条天皇と白川天皇上皇)と清盛の祖父の平正盛とその子忠盛(清盛の父)について書く予定です。