tarobee8のブログ(戯言)

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水島の合戦

1183年11月17日、今の岡山県の水島付近(現在の倉敷市玉島)で平家軍と木曽義仲軍との合戦があった。
屋島にいる平家軍に義仲軍が船で上陸を挑もうとしたが、水島で待ち構えていた平家軍に船上から攻撃され陸に後退した。そこを平家軍が上陸して義仲軍を撃破した。都落ちのきっかけを作った憎き義仲軍を撃破して平家は意気揚々。新宮行家は義仲とは不仲になっており、義仲自らが平家討伐に出かけたのを避けるようにして迂回して、播磨に進出してきた平家軍と戦い大敗して和泉の国に逃げ延びた。義仲は京で後白河の不穏な動き(頼朝に義仲討伐を一任した)を知り京に引き返した。平家軍はこの後、福原に陣を構え鎌倉軍と戦うことになった。それに引き換え、水島の合戦と前後して播磨での戦いにも敗れた義仲軍は離脱者が相次ぎ、軍は崩壊した。その後も離脱者が後を絶たず、ついに鎌倉の源氏本隊を迎え撃ち大敗したのだった。
なお、水島の合戦の時に日食が起こり、義仲軍が慌てたのが敗因という説があるが、ステラナビゲーターでシミレートしたところ、1183年11月17日は10時30分頃より日食がはじまり、12時過ぎに食分最大、14時前には終わっている。皆既に近い部分日食であったようだ。平家は宋との貿易によりこの日に日食があるのを知っていたのです。古代社会では、日食や月食といえば天からの恐れおおいメッセージとして一般には信じられていました。義仲軍も例外ではなかったのです。平家にとって、その後日食がなかったのは事は天が味方しなかったのでした。
なお、水島の合戦は1179年に源頼政の挙兵を打破して以来の平家の唯一の勝利としているサイトが多いが、そのような事はございません。尾張常盤御前の息子で義経の兄である義円と新宮行家と戦い大勝しています。義仲を迎え撃つべく出兵した加賀の戦いでも大軍にものを言わせたとはいえ大勝利でした。また都落ちして須磨の合戦で負けた後も、平知盛が範頼軍を山陽道で神出鬼没のゲリラ戦法で再々撃破しています。惜しむらくは、屋島からの援軍がなかった(挟み撃ちできなかった)ので、兵数に劣る知盛軍は決定的な勝利を収める事ができないまま、範頼軍の西進を許してしまった事です。
範頼軍が1番恐れていたのは屋島の平家本体と彦島の知盛軍による挟み撃ちでした。知盛の神出鬼没の戦術にさすがの坂東武者たちも「引き返そう」と恐怖を抱いていたのでした。
が、屋島義経の陽動作戦によって陥落して挟み撃ちの作戦はパーになりました。
範頼はそれによって急速に西に向かい周防から九州に船で渡って九州の豪族たちを頼朝に平伏させる事に成功しました。ただ菊池氏だけは最後まで平家に服従を誓っていて平家滅亡後も鎌倉幕府から冷遇されています。
元寇の時にも菊池氏は大活躍しています。