tarobee8のブログ(戯言)

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三国志の人物像~曹操孟徳 part2

2021年3月20日

その後の曹操は副丞相(司空)になり後漢の皇帝「献帝」の威光の下に、呂布袁術張繍を討つ。張繍は降服したが、裏切り曹操配下の武将「典韋」達は戦死し、曹操も負傷した。が、再び打ち破り張繍を捉えた。普通なら殺してしまうはずが、許し配下にしてしまう。
また呂布討伐は劉備を巻き込んで(呂布が何度も劉備を裏切ったりしている。劉備は一度呂布の配下に収まった(乗っ取られた)が、曹操に助けを求めて来た)、結局は危険人物の呂布を処刑した。その後、劉備ともども許都に帰還する。劉備は予州牧・左将軍になった。曹操には破格の待遇を受けた。やがて曹操の傀儡に嫌気が差していた献帝は側室の父である車騎将軍・董承と共に曹操暗殺を密かに画策する。劉備も巻き込まれている。身の危険を察した劉備袁術討伐のためと称して曹操から軍勢を借りて許都を脱出している。徐州に帰った劉備は本当に袁術を攻めたが、倒しきれなかった。が、そのうち袁術は病死した。
董承らの計画を知った曹操は計画に加わった者を次々に処刑して、董承の娘で献帝の側室「董貴妃」も処刑している。一味である劉備も討つべく軍勢を差し向ける。一度は負けたが、劉備軍を打ち負かし劉備は妻や家臣たちを捨てて袁紹の下に逃げた。関羽劉備の妻と共に曹操に降服した。曹操関羽に惚れこんでいて破格の待遇をした。関羽を「漢寿亭侯」に封じたともされているが、これは死後の封合であり、この時本当に漢寿亭侯に封じられたのかは分からない。が、厚遇された関羽は白馬の戦いで袁紹配下の顔良を刺し殺し首を取った。これで曹操に対する恩義は返したと思っている関羽は主人である劉備の居場所を知り、曹操からの贈り物は全て置いて劉備の夫人と共に劉備の下に帰っていく。曹操の家臣たちは追っ手を差し向けるよう言うが、関羽の道中を邪魔してはならぬという通達を出して、送り出した。関羽は無事に劉備張飛趙雲たちと合流し、荊州劉表の元に行く。
やがて袁紹曹操に対して大軍で戦いを挑む。西暦200年、官渡の戦いだ。物語では袁紹軍70万、曹操軍7万となっているが、実際は袁紹軍は20万くらいだっただろう。曹操は家臣の助言どおり精鋭の兵少数(といっても数万はいたと思われる)で守りに徹し、袁紹の兵糧基地を襲って、それが元で袁紹軍は裏切り者が次々に出て敗れ去った。敗れた袁紹は病になり死亡した。袁紹の後継者を巡り内紛を繰り返す袁軍を次々と打ち破り、204年に故袁紹の本拠地の鄴(魏ともいう。魏の国名になった地。現在の河北省)を攻め落とし、自分の本拠地とした。後に魏公・魏王になったのはこの地名に由来する。207年には袁家に味方する烏丸族も滅ぼして、袁一族は滅亡した。その間、袁紹の息子の一人「袁譚」が投降したり裏切ったりを3度も繰り返し許していたが、3度目には許さなかった。でも2度までは許したのですね。心が広いお方だったようです。
また、袁紹配下の陳琳は戦いの前に檄文を書いているが、曹操を宦官の子孫だと罵っている内容だった。陳琳も捕まった。袁紹の墓の前でその檄文を読ませた。曹操は怒りもせずに聞いていたそうだ。そして文才を評価して自分の配下に置いている。
そして、三公制度を廃して自分は丞相になり、副丞相として御子大夫を設置した。国防相曹操自身が兼ねているようなものだから不要だったのだ。
こうして、中原・河北とほぼ統一し、残るは益州・漢中・関中・西涼荊州・江南だけになった。
208年、15万の大軍を率いて荊州攻略に向かう。荊州はすでに当主の劉表は病死しており、後継者争いで勝った「りゅうそう」は降服する。
劉備荊州南部で待っている「りゅうき」の所に向かって逃げた。
命を狙われていた「りゅうき」は劉表存命中に荊州南部の郡の太守に任じてもらい難を逃れて1万の軍を擁していた。それと合流するためだった。

注:すみません、漢字で書くと文章全体が文字化けするので平仮名表記にしました。
りゅうき=劉+(王+奇)・・・王へんに奇を書きます。
りゅうそう=劉+(王+宗)・・・王へんに宗と書きます。

孫権には自分に降服して一緒に劉備を討とうと呼びかけるが、孫権周瑜劉備から遣わされた諸葛亮孔明主戦論に応じて、曹操と一戦交えることになる。赤壁の戦いだ。なお唐の時代に詠んだ卒塔婆赤壁は戦場となった赤壁とは少し離れています。揚子江(長江)には至るところに赤壁という地名があります。
曹操は23万の軍(うち8万は荊州軍)を揚子江中流北岸と軍船で南岸の孫権軍と対峙した。孫権軍は3万。(物語では曹操軍70万、孫権軍6万か7万となっているが、中国の物語での10万以上の軍は1/3、それ以下の軍は1/2と解釈してよい)普通なら勝ち目は孫権軍にはない。が、曹操の軍のうち自前の兵は袁紹配下にあった者も多く忠誠心は薄い。そうでなくとも荊州以外の兵は慣れぬ南国で疫病に苦しんでいた。荊州の軍は降服したばかりで、これは渋々従っているだけであった。つまり実数以上に戦力は接近していたと考えられる。
この時期(晩秋~初冬)には西北の風ばかり吹く。つまり孫権軍からみて西北に陣している曹操軍は火攻めに遭う危険性がほとんどない。が、この年に動植物の様子に異常が見られる事からやがて南東の風が吹くのを知っていた諸葛亮孔明周瑜に火攻めをするように助言する。やがて孔明の言う通り東南の風が吹き始め孫権軍は火攻めをして大勝利を収めた。208年12月だ。
が、曹操の息子「曹丕」(後に献帝から禅譲を受け魏の皇帝になりました)がこの戦いの前に遅れてきて曹操に怒られている。が、もしもの事を考えて途中で荒れた街道を整備しながら来ていたのだった。そのために曹操軍の逃げ足は早く(重装備を脱ぎ捨てて軽装備で逃げるので)、追う劉備軍も孫権軍もなかなか追いつけなかった。しかも焼かれた軍船は元々荊州のもの。戦死者や負傷者は大半が荊州兵だった。大敗したとはいえ、曹操にとっては大したダメージにはならなかったのだ。

注:物語では孔明は南東の風を吹かせるために「七星壇」を作らせ祈祷した事になっていますが、孔明はその時期のその土地での動植物の異常現象に気づいており、しばらく後に東南の風が吹くのを知っていたのです。もし本当に祈祷したのなら物凄いパフォーマンスですね。
また孔明は当時普及し始めていた「浮屠信者=仏教徒」と若くして接点があり、親交を結んでいた。それ故に各地からの種々の情報が孔明に集まっていた。一般人なら色んな所(国)に行き来するのは自由でしたので、孔明は居ながらにして情勢に通じていたのです。当時の中国は仏教はまだ一般的でなかったのです。孔明の秘書の甘海が浮屠たちを取りまとめていました。

注2:曹操赤壁の戦いで敗れて命からがら敗走し、関羽が最後に立ちはだかり曹操がかつて短期間だったが、主従の関係にあったことを持ち出し助命を乞い関羽は見逃した・・・と物語ではなっていますが、あれは後世の創作です。