tarobee8のブログ(戯言)

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三国志の人物像~曹操孟徳 part3

2021年3月21日

赤壁の戦いで敗れた曹操は、人口の湖を造り軍船を建造し水軍の養成に当たった。自分たちの弱点は水上戦にあると分かったからだ。孫子の兵法の「己を知る」に当たる。
荊州の水軍に頼らなくとも自前の水軍があった方がいい。また自前の水軍を持つのは中国を統一するためには必要だった。荊州の南部は劉備に抑えられていて、荊州北部は曹操の領土という配分になっている。
江南と荊州南部の攻略は後回しにして、関中には自分に対抗する軍閥が存在する。漢中には五斗米道(米を五斗献上したらどんな病気でも治してもらえるという新興宗教)の張魯もいる。210年に関中の軍閥を次々に攻略。が、馬超は逃走し張魯を頼り後に劉備の配下になった。張魯曹操に降服した。
213年、魏公になった。216年には魏王になっているが、最後まで皇帝になる事は欲しなかった。家臣たちが皇帝になるよう勧めても「自分は漢の忠臣でいたい」由の発言をしている。
その頃、益州(西川とも蜀とも言う)を手に入れた劉備と漢中の攻防戦を繰り広げる。一度は劉備に勝って漢中を確保したが、2度目は敗れて撤退した。(この戦いの後、劉備は漢の太祖「劉邦」の故事に習い「漢中王」を称している。)その頃に病気になり寝込む事が多くなった。脳腫瘍だったという説もある。幻覚を見たりして関羽が現れたりしたそうだ。物語では診察した医師は「華佗」で手術を勧められたが、殺されるのではないかと疑った曹操華佗を殺害したとなっているが、医師は華佗ではなかったし、華佗を殺したのもウソです。
220年1月23日に病死しています。
後に跡取りの曹丕献帝から皇帝を禅譲されて、魏の皇帝になり漢は消滅しました。曹操は「太祖」「武皇帝」と号され、後世では「魏の武帝」と呼ばれています。
遺言により墓には金銀財宝は入れず、もちろん人柱も入れていません。身分の割には質素な墓だったそうです。

なお、詩人でもあり兵法の書にも通じていました。
孫子の兵法を現在のような13篇に編纂したのは曹操です。
また戦の際、兵糧は当時は敵地から盗賊まがいの略奪が当たり前の時代でしたが、屯田をして自給自足したのも目新しい事です。後に諸葛亮孔明もそれを見習っています。
物語では極悪人のイメージがありますが、本当はそうではなかったのです。
物語では、誰かを正義の味方に仕立て、誰かを悪人に仕立てないと面白くないので後世に色んなバージョンの物語が創作されています。日本で「三国志」といえば物語「三国演技」が基になった話です。