tarobee8のブログ(戯言)

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三国志の人物像~諸葛亮孔明

2021年3月22日

諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)。姓は「諸葛」名は「亮」字(あざな)は「孔明」。181-234。奇しくも後漢の最後の皇帝「献帝」と同年に生まれ、同年に亡くなっている。
泰山郡の丞(しょう)諸葛圭の次男。徐州琅邪郡陽都(現在の青島市付近)に産まれる。父親が激務だったために実家に母が帰省していた。諸葛氏は元々「諸県」出身で「葛」であったが、先祖が陽都に移住して来た際に現地に「葛」氏がいたため、区別するために諸県の葛氏という意味で「諸葛」姓を名乗った。諸葛亮孔明が産まれた頃の皇帝は「霊帝」だった。先帝の桓帝に子供がなく傍系でしかも格下の皇族出身で貧乏だった。それで皇帝になるとお金儲けを考え、官職の売買の手数料で儲け、さらには宮中で商いを始めた~という逸話がある。
兄の「諸葛瑾子瑜」とは7歳違い。その他には弟(諸葛均)と妹がいたという説と姉がいたという説がある。姉にせよ妹にせよ「鈴」という女性だ。

注:
州には刺史がいてその中の郡・県などの巡察が仕事だった。俸禄は600石。後に郡の太守や県の県令・県尉などを統括する州の長官「牧」となった。俸禄は2000石。刺史として任命されても俸禄2000石。が、郡の太守より格上。
州の中に郡があり、長官は太守。俸禄は2000石。日本の国の守、県知事に相当。次官は行政は「丞」、警察・裁判は「長史」
郡の下に県があり、政治的な長官は「県令」。警察・裁判の長官は「県尉」
県の下に郷庭がある。町や村のようなもの。

身分の高い皇族が長官の郡を「国」といい、名目だけなので実質的な長官は「相」。国と郡は同格。
身分の低い皇族は県や郷庭を食邑としていた。


184年に黄巾の乱が起こっている。士大夫階級(日本でいえば中下級貴族と高級武家)と宦官勢力の対立が激しく、宦官が士大夫階級を押さえつけていて専横していた時代だった。宦官による政治は搾取と無秩序な社会を増悪させ、庶民は政治に期待が持てないのならと宗教にすがる者も大勢いた。その中に道教系の新興宗教教団「太平道」は大勢の信徒を集め「張角」が統べていた。それらが、乱れきった世の中というよりは政治に反抗して黄色い巾を印にして反乱?を起こしたのが「黄巾の乱」です。最初は悪徳な政府(地方政府も)から身を守るのが目的だったのですが、いつの間にか何の罪もない人民を襲うようになったのです。この乱の鎮圧に諸侯などが駆り出されています。劉備玄徳も関羽雲長や張飛翼徳たちと民兵を組織して一旗上げようと目論みました。やがて黄巾の乱は平定され、諸国の士大夫階級は何進の檄文に応じて洛陽にやって来ます。こうして宦官勢力は皆殺しされました。

そうした混沌とした時代、孔明が数えで9歳の時に病弱な母親が亡くなった。弟の諸葛均を出産した後のことだった。
やがて父の諸葛圭は後妻を娶る。が、その父も孔明が数えで12歳の時に亡くなった。
父親の葬儀のために来ていた叔父の諸葛玄がいる。荊州劉表に仕えていたとも袁術に仕えていたとも言われる。どちらかは不明。家族会議で、1年の喪が明けたら兄の諸葛瑾は父の後妻「宗氏夫人」と共に江南の孫氏を頼る事になり、孔明と弟と姉(妹?)は叔父と一緒に荊州に行く事になった。途中、徐州の大虐殺の荒れ果てた光景を見た孔明曹操を毛嫌いする理由になったそうだ。
こうして孔明は叔父の諸葛玄の元に行く。間もなく諸葛玄は予章郡の太守になった。孔明は数えの15歳だった。任地に赴いたが、別の領主からも予章郡の太守が任命されて後から着任した。両者の間で紛争が起き、やがて戦になった。諸葛玄は戦に敗れ逃走したが、途中窄融たちの反乱に遭い戦死する(怪我が元で長らく病臥し病死したという説もある。)。孔明も同行していたようだが、死なずに済んだ。孔明はその間に浮屠信者=仏教徒に接していた。浮屠信者はまだ当時の中国では少数派だった。徐習や徐季がリーダーであった。そうした事があり孔明は浮屠(以降、仏教徒と書きます)信者との親交を深め、一般人なので諸国の往来は自由です。そのために諸国の情報をいち早く知る事が出来るようになりました。これは後々生かされます。居ながらにして情報を知りえたのはこのためです。

注:諸葛瑾は江南(揚子江の南=後に呉の国になった)に行ったが、義母が江南出身というのもあった。そこの新しい領主である孫策には仕えなかった。どうも性格が合わなかったようだ。後に弟の孫権に仕えました。