tarobee8のブログ(戯言)

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ロシアは本当に悪なのか?

ファシズム ー 差別意識による支配】
世界中で今、ロシア人が攻撃されるような空気になっていて、ドイツでもロシア系の子供が学校でいじめに遭ったり、ロシア系の人がやっているお店が妨害受けたりしているらしい。今行われているウクライナの戦争で、西側の主流メディアはロシアが一方的に悪いと言い続けていて、だからロシア人を攻撃するのが平和をもたらす道であるかのように、多くの人は思わせられてしまっているのだ。
ロシアが一方的に悪いのかどうかなんて、そう簡単に決められることではないと思うし、ましてや長いこと国外に住んでいたロシア人には何の責任もないと思うのに、それでもメディアに焚きつけられて、ロシア人を差別するのが当然みたいな空気ができてしまっている。
これは80年前のドイツで、ユダヤ系の住民に起こったことと同じだと何人かのドイツの人が言っていた。ユダヤ人の店には行かないようにという空気ができて、営業妨害みたいなことをしてもいいみたいな空気ができて、ユダヤ系の人間を差別するようにプロパガンダで誘導されていったのだと。
それがしまいにはホロコーストのようなことになり、第二次世界大戦後、ドイツではナチが厳しく禁じられることになった。ナチ的なことを発言したり、ナチのシンボルなどを使うのも違法になり、罰せられるようになった。ところが今、名前が変わり、差別する対象が変わったら、同じことがまかり通っているのだ。ユダヤ人がロシア人に変わっただけで、起こっていることはまったく同じことなのに。
つまるところファシズムとは、差別意識を植えつけることによって、人を分断し、集団的な攻撃に駆り立てていく支配メソッドなのだと思う。ある民族、あるグループが、人間として劣っている種族だとか、世の中に危害を加える悪い人たちなのだという意識を植えつけると、人はそういう人間に自分が属していると思われたら大変だという恐怖感がかき立てられる。その結果、そのようにならないようにするために、何でもやるようになってしまうのだ。それが人を不当に差別することだとか、理由もなく侮辱したり、暴力を加えるようなことであってもだ。
ウクライナで8年前から事実上政府を支配しているのは、アゾフ連隊というナチそのものの復活と言えるような準軍隊で、これはナチス時代のドイツのナチ親衛隊とまったく同じような組織であるらしい。それは、オリバー・ストーンウクライナ三部作などを見てもわかるし、今ドンバスの現場から送られてくるさまざまな動画を見ても、疑う余地はないと思う。アゾフ連隊は、ロシア人は害虫のようなものだから、皆殺しにするべきだという考えを吹き込まれていて、それを隠しもしていない。
彼らはハーケンクロイツとナチの親衛隊のマークを組み合わせたようなシンボルを使っていて、そのシンボルの入ったTシャツや旗などが、ドイツのアマゾンでも売られているのだそうだ。ドイツではハーケンクロイツも禁じられているのに、アゾフ連隊のシンボルは公然と使われている。名前が変わっただけで、同じものであるのにもかかわらず。
アゾフの集会で、舞台上のリーダーが「皆ジャンプしろ、ジャンプしないやつはロシア人だ!」と言っていて、参加者が全員ピョンピョン跳んでいる場面がドキュメンタリーの中にあった。どうして「跳ばないのはロシア人だ」ということになるのかわからないけれど、そう言われた人々は、ロシア人にならないようにと、一生懸命にジャンプし続けていた。
これはつまり、言う通りにしないのは異端者だ、排除されるべき人間だ、ということなのだ。ロシア人は害虫で、殺してもいい、というのだから、異端者とみなされたら、生きる権利もないことになる。人々が豊かでないのはロシア人がすべて悪いみたいに言われて、ロシア人を排除すれば国はよくなるのだみたいなことを吹き込まれている。それで、すべての攻撃性をロシア人に向けさせられているのだ。ところがその結果、まかり間違ったら自分が差別される対象になることを、受け入れているようなことになっている。そして、差別されるべき対象にならないためにと、リーダーの言うことに何でも従うモードにさせられてしまう。
人に与えたものは、必ず自分に返ってくる、というあの宇宙の法則をここでも思い出す。人にすることは、実はその人が自分自身にしていることなのだ。人を差別する人は、実のところ自分が差別される恐れを持っていて、その恐れに支配されている。差別することで、自分が差別される側にならないですむと思い込んでいるのだけれど、その結果、自分の人権も支配者の手に渡してしまうようなことになっているのだ。「xxをしないやつはロシア人だ!」と言われたら、何でもするようになってしまうのだから。
パンデミックのときには、政府の対策に抗議する人たちを、ドイツでは「ナチ」だと言っていた。別にこの人たちがナチ的なことを発言していたわけでもなんでもない。それなのに、ナチだとか極右だとかメディアでさかんに宣伝されていて、何も知らない人たちは、何を言っているのかも考えないで、「ナチだから悪いのだ」と思い込むようなことになっていた。ナチは悪いに決まっているのだから、そういうことは発言することさえも違法だと、多くの人は反射的にそう思ってしまうのだ。
ナチに反対するのは、ファシズムと逆なのだと多くの人は思い込んでいるのだけれど、「ナチ」がこういう風に差別用語として使われた場合、それ自体がファシズムになってしまう。「こういうやつはナチだ」と言ったら、その人は発言する権利さえないということになる。そして、皆は「ナチ」にならないようにと、そういう議論を聞かないようにし、さらにはそういう人を攻撃するべきだとさえ思い込んでしまう。そうやって、何を敵にしようが、差別意識をかき立てるべくあおられたら、支配者の思うまま誘導されてしまう。
ユダヤ人」だろうと「ロシア人」だろうと「ナチ」だろうと、集団でくくって差別する概念として使われるとき、人を集団暴力に駆り立てる力を持ってしまうのだ。これこそがファシズムだ。何を差別の対象にするかは関係がない。ゼレンスキーはユダヤ人だから、ナチなわけがないという議論もあったらしいけれど、そういう問題ではない。ユダヤ人だろうとロシア人だろうと、ある民族を集団で差別していいという考えそのものがファシズムなのだ。
2年前に始まったパンデミックのときから、メディアで人々が一定の方向に煽られていくのを目の当たりにしている。どうしてこんなに皆操られてしまうのかと思うけれど、それはまさにこの差別意識を使っているからなのだというのが、だんだんと見えてきた。どういう人間が悪くて、どういう人間がいいのか、ということを植えつけられたとき、多くの人は判断停止状態に陥ってしまうようなのだ。そんなことはないんじゃないかとか、本当に悪いのだろうか、とかは考えない。怒りを込めて批判する人の発言や、犠牲になった人の嘆きの声などがメディアで繰り返し流されて、批判される側にならないようにと、自分の行動を合わせてしまう。それで、皆が集団で同じ行動を取り、同じように考えるという状況ができあがってしまう。
パンデミック対策に抗議する人たちの間で、「人権を守れ」ということが今さらながらに言われていたけれど、それはファシズム的な状況になったとき、まず犠牲にされるものは人権だからだ。どんな人間であれ、平等に生きる権利があるということ。それぞれの考えを持ち、発言する権利があるということ。ファシズムの状況になると、それが真っ先に消されていく。これは、差別する側にもされる側にも言える。人権というものが、ある一定の条件を満たしているかどうかで左右されるのであれば、それはもはや人権ではないからだ。
犯罪者だって、人権はちゃんとある。弁護する権利もあるし、公正な裁判を受ける権利がある。犯罪者に対してだって、侮辱したり危害を加えるのは人権侵害なのだ。そのことを忘れるべきではない。
つまるところ、どんな人間でも人間として大事に扱うということは、自分自身を大事に扱うことでもある。どんな人間だろうと差別されるべきではないという考え、すべての人間には平等に人権があるという考え、それこそは今忘れられそうになっているものなのだけれど、それを忘れたら、私たちは、人が人を大事にしない世の中を作り出してしまうことになる。
人は誰でも人として大事に扱われるべきだということ。そのことを今私たちは思い出すべきなのだ。世の中がどんな状況であれ、断固としてその地点に私たちは留まるべきだ。何故ならそれこそは、私たち一人一人を地上の生と結びつけているものだし、地上の生を人間らしいものにする条件だからだ。そしてそれこそは、ファシズムを防ぎ、世界を支配から解放する唯一の道だと私は思う。