tarobee8のブログ(戯言)

PC版ではこのページの右下に年月別のアーカイブのリンクがあります。スマートフォンでPC版を見るには1番下にPC版と書いてありますので、ブラウザー別の設定方法を参照ください。

三国志の人物像~諸葛亮孔明 Part5

2021年3月26日

211年暮れに法正が劉璋の使者としてやって来た。益州では劉備を迎えるのに反対する勢力がいる。益州を奪われると予想しているのだ。劉備が法正の要請に応じたのを知った江南(東呉)の孫権劉備の遠征中は妹を里帰りさせたいと申し出た。こうして孫夫人は帰って行くが、なんと劉備の一人息子「劉禅」をこっそり連れ出していたのだった。後で気づて趙雲は大急ぎで烏林に行き、孫夫人の船を待って劉禅を返してもらった。
益州には劉備が諸将を連れ、龐統が作戦の指揮を執る。魏延も加わっていた。3万の軍勢だ。が、孔明関羽張飛趙雲は同行していない。東と北に対処する必要があったからだ。江州(重慶)に入った劉備一向は劉璋の出迎えを受け大歓迎された。宴会は数ヶ月に渡った。途中、宴の席で劉璋を暗殺してしまう計画もあったが、人心を掌握せぬうちは逆効果になるからと見送った。
212年、東呉でも一大事が起こった。曹操が攻めて来たのである。が、曹操は無理をせずにらみ合いが続いて、引き換えしている。が、またいつ攻めて来るか分からない。孫権劉備に援軍を頼んだ。今、益州よりも孫権との同盟と荊州を守るのが先となったのだ。いったん荊州に帰ることになった。張昭はそれを知って引きとめようとするが、益州乗っ取りが張昭の手紙から露見してしまった。張昭は殺された。こうなったからには今荊州に引き返せば、益州奪取は遠のいてしまう。もうこのまま益州で戦い、奪い取るしかない。こうして次々と城を攻め落とし、雒城包囲の最中、龐統は流れ矢に当たり死んだ。孔明は決意する。龐統の代わりになる人物は自分しかいない。孔明関羽荊州を任せ、張飛趙雲を連れて劉備の援軍に駆けつけた。
その頃、漢中でも事件があった。曹操に敗れた関中の10将の一人「馬超」が張魯を頼って転がり込んできた。張魯馬超を歓迎した。曹操の驚異に対抗するために馬超の軍団は貴重なのだ。馬超五斗米道の中の高官に任じられたが、教団の中では新参者のくせに要職についているのが不満で、馬超には冷たかった。得体の知れない教団の中で居心地は悪いに決まっている。また馬超張魯の軍を借りて失った領地を取り戻そうとしたが、果たせず。孔明は早速、劉備に指示を出し馬超張魯を捨てて劉備を頼るように工作した。馬超劉備を頼り張魯から離れた。
雒城はまだ包囲されたまま落ちないでいた。江州城を守る厳顔も手強い。少数なのに大軍の張飛軍に抵抗した。やっと落としたが、張飛は怒って「少人数なのにどうして降参しなかったのか!」と怒鳴った。厳顔は「益州には首を切られる将軍はいても降服する者はいないのだ」と言い返した。張飛は怒って斬首するように命じた。厳顔は「首を切るなら切ればいいではないか。どうしてそんなに怒るのか」と言い返した。これに感銘した張飛は厳顔を許した。
孔明張飛趙雲たちが合流して雒城に着いた。大軍が合流してきて、馬超も加わった。成都にいる劉璋は、ついに降服を決断した。劉備益州の臣たちの身分を保証し、劉璋だけは身分を保障したまま荊州に移住させた。214年の事だった。
こうして劉備劉璋の臣からなる合体政権が誕生した。

漢中では、215年に曹操が押し寄せて陥落した。張魯は善政を布いており、財宝も国の宝だからと一切手を付けていない。曹操は感銘し、張魯とその子供たちを許し丁重にもてなしている。
漢中を巡り、後に劉備と戦う事になる。