クリスマスイブですが

2021年12月24日

今日はクリスマスイブですが、母が生きていれば97才の誕生日です。
凄い長文ですが、最後まで読んでいただくと有難いです。
母はN家の末っ子として生まれました。本来なら大人になればお嫁さんに他家に嫁いでいたはずです。
N家は平安時代から続く由緒正しい家柄です。江戸時代は広島の浅野家に仕えていました。最後の江戸時代の当主は殿様の側近でした。
浅野の殿様が廃藩置県のために東京に引っ越しされる時に、お世話になった8人の側近に自分の持っていた土地を分け与えました。
N家のもらった土地は後に陸軍の演習場になり、代換地により今の広島市南区の段原の広大な土地をもらい、地主として暮らしていました。
母が子供の頃、近所にキリスト教の幼稚園があり「私も入りたい」と言うと幼稚園の先生が
「お父さんとお母さんがいいと言ってくれたらね」と言われて母の母(祖母です)に言うと祖母は
キリスト教が大嫌いで拒否されてあきらめました。
母は末っ子で1番小さくて、祖父がいつも愛人たちの家に毎日のように日替わりで寝泊まりしているので祖母の
機嫌が悪くてよく捕まえられては柱に括りつけられていたそうです。
母には少し年上の兄がいて、N家ではたった1人の男の子でした。N家の跡取りとして大切に育てられていました。
その兄(伯父)は母を大変かわいがってくれていたそうです。N家には女の子4人と男の子1人だけでした。
N家は女系家族で時々血筋が途絶えそうになると婿養子をもらって平安時代から続いている血筋を守って来ました。
母は美人で頭が良く運動も良くできて活発な女の子で、気も強くて曲がった事が大嫌いで、おかしい事は相手が
誰であろうとおかしいと文句を言う人でした。
お茶目(本当に目は薄茶色でした)で愛嬌があって子供の頃からみんなから可愛がられてきました。母が小学生の時の話をよくしてくれていました。
今の広島市南区の段原から広島第一県女に通っていて、16歳の時に将来広島市は危なくなるだろうとの
祖父の意向で別荘のあった佐伯郡五日市町に引っ越しました。五日市から広島市の第一県女に通っていました。
成績は優秀でいつも1番で級長をいつもやっていたそうです。昔は成績が1番の生徒が級長をする事になって
いたそうです。
祖父の長女は嫁に行って夫が満州の会社のお金を使いこんで祖父が肩代わりして返済して、次女はY家に
嫁いで三女は幼くして亡くなって、長男(伯父)は病気で亡くなり、さすがのプレイボーイの祖父もガックリ
来て落ち込んでいたそうです。また祖父は「この戦争は日本が負けるで。外では言うなの」と言っていたそうです。
五日市の別荘は五日市は気の荒い人が多くて、別荘地の13件の家はよそ者でしたので、負けないように結束して
いたそうです。戦争中には母は卒業して隣町の廿日市町の平良小学校の代用教員をしていました。
通路には大きな蛇がいるし、学校では靴が生徒によく隠されていたりしたそうです。学校の校長からは
パーマはいけんと注意されていたそうです。生徒達には人気のあった先生だったそうです。
平良小学校で広島市から1945年8月15日の朝、巨大なキノコ雲が立ち上るのを見て「これは大事だ」と広島市
住んでいる親戚の安否を確認しに行くと爆心地に近い天満川の橋の所で男の人が立っていて「ここから先に
入ったら命がないから帰りなさい」と言われて引き返して翌日、迂回して広島市の中心部に入ったそうです。
見渡す限りの焼け野原で鉄筋コンクリートの建物がポツンと建っている状態だったそうです。
途中で脚に何か当たるので丸太かと思ったら黒焦げになった死体で、死体にはウジ虫が湧いていたそうです。
また皮膚が垂れて幽霊のように歩いている人がいたりして、まるで地獄のようだったそうです。
祖母の実家は伏見屋と言って呉服店の名家でしたが、ちゃぶ台を囲んで全員骨になっていたそうです。
段原の実家は比治山の影になっていて何とか持ちこたえていたそうです。N家の本家も無事だったそうです。
Y家に嫁いでいた姉(伯母)一家も比治山の影で無事だったそうです。母は被爆者の看護を草津の収容所で
していたそうです。それで被爆者健康手帳を昭和35年になって交付してもらっていました。今では形見に
取ってあります。被爆直後の広島市の中心部で放射能をたっぷりと吸い込んでいたせいで母は健康を損ねて
いました。戦後のGHQの命令で教科書の隅塗り事件を体験して「昨日まではこれが正しくて、今日からはあれは
間違っていてこれが正しいなんて教育ではない」と学校に辞表を出して廿日市の教育事務所に転勤しました。
そこでサイパン島の玉砕前に負傷して帰国していた父が働いていました。母は小柄でも超美人で宝塚に行けばいいのに
と言われていたくらいです。体型もグラマーで、父は母に一目ぼれして猛アタックです。養子でもええけえ
とプロポーズ。最後にはお母さんの面倒も看るけえと言ってこれが決め手になって結婚しました。
父はN家の婿養子になって男の子3人と女の子1人の4人子供が産まれて、父は大酒飲みでしたが、幸せでした。
父は広島県教育委員会の所属で最終的には縮景園の園長でした。N家が仕えていた浅野家の殿様のご子孫とも
筆頭家老の上田家とも縮景園を通じて知り合いになり、親しい間柄になりました。浅野内匠頭吉良上野介との実話も聞けました。
母は上田流のお茶の師匠にまでなりました。ヒステリーで難しかった母もお茶を習い始めてからだんだんと
ヒステリーを起こさなくなりました。でも性格は気難しくて教育熱心で、小学校の時は進学塾に通わされていて、学校の夏休みや冬休みの宿題も字が汚い、これじゃいけんと全部消しゴムで消さされてもう1度最初から書き直さされたり、学校のテストでいつも100点を取っても、字が汚い、これじゃダメじゃと怒られたりしていました。誉められる事はなし。
中学も広島学院修道学園の両方に合格して、私は修道学園に行きたかったのですが、
家族全員が広島学院に行けと大反対されて仕方なく広島学院に通っていました。でも嫌なものは嫌という母と
ソックリな性格(顔もソックリ)のために公立の高校に行きたかったのですが、中3の時の担任と私は犬猿の仲で
内申書に「非常に反抗的で将来は学生運動のリーダーになる・・・」と書かれていて当時学生運動なんて書かれたら
禁句です。それでテストと内申書の学力の評価では合格しているのに不合格にされて、滑り止めで受けた崇徳学園に行きました。
が、内申書の内容があまりに酷いので文部省のブラックリストに載せられて毎年大学に願書を出しても受験票が
来ずに、結局サスペンドされているのを知って方針転換して親戚の病院で働きながら準看の学校に行き、資格を取って
正看の学校にも働きながら通って正看の資格を取りました。4人兄弟の中でただ1人大学に行けませんでした。
それが適齢期の1980年代から1990年にかけて3高の時代でお見合いではけんもほろろで全滅。恋愛では上手く行っても
母が「どこの馬とも知れぬ女と結婚させる訳にはいかん」と何時も反対されて結局婚期を逃してしまいました。
母は難しい人でしたが、私は子供の中で1番可愛くてしょうがなかったそうです。最後まで私をお見合いで結婚
させようとしていましたが、私はお見合いなんて大嫌いでした。お見合いの度に、いかにも無理やり連れて来られた
と言った雰囲気ばかりで、聞かれる事は、どこの大学を出ているのかとか職業は?(ステータス性のない看護師では
ダメ)とか収入は?とか将来性は?とかばっかり。みんな不合格です。唯一いいのは超美男子という事だけです。
またN家の土地や家などの不動産は母の姉の嫁ぎ先であるY家に乗っ取られています。母が不在の時を狙って祖母に実印を持って来させて、押印させて
卑劣なやり方でN家の財産を横取りしていたのです。それで母はY家が大嫌いでした。母の実家もY家に盗まれています。
後に和解しましたが。
父が亡くなり、母はガックリ来ていて私が母を精神的に支えていました。母は原爆のために焼け残った段原の土地や家を
不法占拠されて終いには借地権が付いていつも賃料の取り立てに追われていて、母は結局念願の借地権を県会議員の力を
借りて高いお金を出して裁判で全部取り戻しました。そしてその土地の一部を当時のせとうち銀行(今のもみじ銀行)が
借りてくれて、母はどうしても賃貸マンションを建てたいと言います。私は後々相続が楽になるようにテナントに
貸し出すように勧めましたが、母の決心は強くてバカな兄も大賛成で結局は大借金をしてまでして段原にソシアル琥珀と言う
賃貸マンションを建てました。大赤字のマンションです。銀行に貸している土地代で儲かっている状態でした。
段原の再開発後の換地の時の立ち合いには母の依頼で私が行きました。兄は口先ばっかりで何もしません。
平成17年に母が近所の庭付きのマンションがありますが、購入してもいいか?と聞くので私は「庭があるようなね。
家の庭だけでも大変なのに、いったい誰が庭仕事をするん?絶対に買ったらいけんよ」と念を押しておきました。
私は母が平成17年の暮れからずっと「今の変な病院は辞めて私の仕事を覚えて欲しいの」と懇願し続けていましたので
70歳まで勤めて欲しいと言われていたのですが、ブラック企業でストーカーの患者さんもいてこの1年間で毎日1時間しか
眠れない状況で迷いましたが、平成18年1月に辞表を提出しました。期限を過ぎても返事はなし。もう少し待とうと
思っていた矢先に仕事中に何でもない事でギックリ腰になり労災を使って整形外科に受診して2週間の治療と安静が
必要と言う診断書を提出しました。痛い箇所には局注をしてもらって痛みはピタリと止まりましたが、2週間リハビリに
通いました。このままではいつまで経っても辞めさせてくれそうにないと感じて事務長に電話して確認しました。
私がいないとやって行けない病院でっしたのでそう簡単に辞めさせてくれる訳はないです。
私の辞表は受理しない方針だそうで、私はどうしても辞めさせてもらうと強引にケンカしてまで言いました。
結局、辞めさせてもらうことになりましたが、もうどこの医療機関にも就職できないようにされました。
辞める時までに用意しておいて欲しいと言った書類も全く用意されておらず、辞めた後も何回も元の職場に行くようでした。嫌がらせの連続でした。
退職金も払わず。何度電話しても切られるので書面で抗議してやっと雀の涙の退職金をもらえました。
退職した後はしばらく弱った体力を回復すべく毎日ユックリ寝ました。そうこうしていると平成18年5月8日に母が
下痢と嘔吐でH病院に救急車で入院して、同時に母は緑内障の大発作も起こしていました。私が夕方から朝の10時まで
付き添いして兄嫁が朝の10時から後退して夕方また私が・・・の繰り返しで、3日後に母が無理を言って退院することになり
私が車で連れて帰りました。翌朝私が母を眼科に連れて行こうとしたら兄嫁が私が連れて行くと言います。
緑内障の大発作だから早くしないと母が失明してしまうと言いました。兄嫁は分かっているから私が連れて行きますと
言います。しょうがなく任せるといつまで経っても連れて行かないので私が母を眼科に連れて行こうとしたらまた同じ事を
言います。結局兄嫁が母を眼科に連れて行ったのは、母が退院してから1週間後か10日後でした。遅すぎます。
母は兄嫁の実家の近くの眼科でレーザー照射してもらったそうです。点眼薬ももらっていました。
兄と兄嫁は父が亡くなってから母宅にピタリと行かなくなって、ホッタラカシでした。
あれほど買うなと言っていた広大な庭付きマンションも何故か買っていました。後で知ったのですが、兄が母をそそのかして
買わせたのでした。兄は庭仕事をしたことがない物だから庭仕事がどれだけ大変か全然分かっておりません。母宅の
1210m^2の庭仕事だけでもメンテナンスが大変なのに、さらに余計な庭仕事が加わりました。が、兄は全くノータッチ。
私は情けなかった。長男がこれほどバカだとは知っていたけど痛切に感じました。おまけに満室でもどっこいどっこいか
赤字です。赤字のマンションがさらに増えて手間暇かける仕事が増えただけです。調子に乗った母は庭付きのマンション
クレール琳琳の南側の草ボーボーの駐車場も3000万円借金して買いました。母はほどなく眼科に行かなくなりました。
理由は先生がロボットみたいだからと兄嫁と言ういつもはいないホッタラカシの人が傍にいるのが嫌でたまらないからだそうです。
弟と同級生の開業している眼科に連れて行こうとしましたが、母は行きたくないと拒否でした。
やがて母は草ボーボーの駐車場をアスファルト敷の駐車場にして、視力が悪いので免許証を自主返納しまして車も廃車処分にしました。母はもう以前のような体力がなくなり
悲しんで泣いていました。私は母に仕事を教えてもらうこともなく1人で探し出してまでして母の仕事を覚えました。
母は言いました。「私は将来どこの施設に入ればいいのかね」と。私は言いました。
「僕が面倒を看るよ」と言いました。母は涙を流しながら「ありがとうね」と言いました。
母の体調は悪くて、私は兄に言うもいつも「分かった、分かった」ばっかりで逃げの一手です。お話になりません。兄は何でもホッタラカシが大好きです。
その後の経過は「母親の事」を参照ください。詳しく書いてあります。
やがて母は認知症になり、私は病院に行こうと誘いましたが、母は「私は大声を上げたり、人を殴ったりする訳じゃないから
行かん」と拒否の連続でした。しょうがなく私は1人であちこちの医療機関を訪ねましたが、いずれも本人を連れて来ないと
何も出来ない。本人を連れてきてくださいと言われてどこもダメでした。最後に行ったNクリニックでH病院に通って
おられるんなんら内科でも認知症の薬を出してもらえますよと言われました。翌日が主治医の診察日で行って事情を話しました。
そしてアリセプトを処方してもらって母の飲む薬に中に入れて毎日私が飲ませていました。
もうその頃は母の認知症は相当進行していました。
兄嫁はいつも私を責め立てます。私が付いていながら何でこのようになるのかと。
またある夏の夕方、夕食を母親に食べさせて熱い湯に入浴していてエアコンと扇風機で汗びっしょりの体をクーリングしていたら兄嫁がチャイムを鳴らしてパニック状態になっています。
私は裸なのでドアは開けられません。何でも琥珀の新入居者がカギが合わないそうでとパニックです。私は今それどころじゃないので、「もう少し待ってください」と言うも兄嫁はチャイムを鳴らし続けて、ドアを叩きまくって叫び続けます。まるでキチガイです。
長男の嫁ですよ。長男が何にもしないし、何も学ぼうとしないから兄嫁も何も出来ないのです。私はZ建設の常務さんに電話してZ興産のSさんの携帯の番号を教えてもらって
電話して今帰る途中で、社員を行かせますと言われました。
やっと汗が乾いて服を着て母宅に行く途中で電話がありました。母宅に上がると兄嫁が母に私の携帯に電話させていました。
私は「これくらいの事でパニックにならんでも」と言うと兄嫁は文句を言うので、兄嫁に相手の人の携帯の番号を教えてもらってZ興産のSさんに電話しました。カギが合わないのではなくて錠がおかしくなっていたそうで開いたそうです。後日、錠を交換してもらいました。
兄嫁は以前にも似たような事でパニックになってヒステリーを起こして私に助けを求めてきています。
長男だからというだけで、世間知らずで何もしない兄と兄嫁がこれだから母は私を指名して今の変な病院を辞めて私の仕事を覚えて欲しいのと懇願したのです。長男は口先ばっかりで仕事が出来ないのです。長年学校の先生をやっていて、教頭先生をしてきて世間知らずなのです。
兄嫁が「どうやって解決したのか」と聞くので私は「もういいから帰ってください」と引導を渡しました。その後兄嫁は父の介護をするからと言う理由で家から出て行って未だに戻って来ません。
平成22年8月7日の11時に私のH病院の定期の受診日だったので、車で出ようとすると母が両手に荷物を多量に持って帰って来ました。暑い中を息をハーハーとはずましていました。
「どうしたんね?」と聞くと「もうすぐお正月じゃけえ、お店が休みになるけえ、みんなに食べさせてやらんといけんから買って来た」と言います。
私は病院に行かずに母を家に連れて帰り、エアコンをつけて休ませました。今はお盆前で正月前じゃないよと言うも母はもう時系列がやられて今が何年の何月何日で何曜日かと言う事も
分からなくなっていました。それ以来、母はいつも多量に買い物をしては食べきれずに私が処分していました。母ももう随分前にゴミの分別もゴミ出しも出来なくなっていたので、私がゴミの分別をしてゴミ出しも私がしていました。
Nクリニックに相談に行ったのはそう言う事がきっかけでした。お陰でH病院のU先生に認知症の薬を出してもらえるようになりました。
それでも兄は要る事はせずに要らん事ばっかりしては要らん用事を作っては私が兄の仕出かした不始末の尻拭いをしてきました。
兄は大問題児です。母が認知症と分かったのは平成20年1月ですが、兄が石内の山のタケノコ取りに行って随分前に母が管理を委託した人が好き勝手にやっていましたが、
私は容認していました。が、兄がたまたま行くと様子が違うので母に報告して母が兄に連れられて行きました。そして、管理を委託している人に文句を言いました。
警察から電話があって「お母さんは呆けているんじゃないですか?」と言われましたが、母が目の前にいいるので「呆けておりません・・・」と苦しい返答をしました。
母は電話から漏れてくる話を聞いて怒って電話を替わって、怒りました。私に代わってくれと言うので、電話で警察官と話して一緒に行った兄の連絡先を教えました。その後、母は
内容証明書を書いて管理を委託していた人に抗議して管理を止めさせました。
その人は怒っていて手紙も届いていました。ハッキリ言って母は呆け始めていていました。内容証明書の写しの内容を見ると母は事実誤認もいい所でした。もうボケが始まっています。
同じく平成20年4月に定年退職した兄が「金がない」と母に言いに来たそうで、母は「竹でも切って来たら」と言ったそうです。それから毎日兄は石内の山に行っていました。
兄にしては珍しいと思っていました。1本づつ竹を切っては枝を切り落として、竹も数本に切って丁寧に1か所にまとめて束ねているんだろうと思っていました。母は比喩的にN家の仕事を覚えなさい。
そうすればお金を出すよ」と暗に言いたかったのです。それを真に受けて本当に
兄は竹を切りに行きました。兄はハッキリ言ってアスペルガー症候群です。空気が読めないし、兄が怒るくらいに言わないと話が伝わりません。
平成21年4月に私が石内の山にタケノコ取りに行くと、ビックリ。何と竹は根元から切ってあるだけで枝葉も落としていなくて竹は立ったままに内側から外側までビッシリで中に入る
事も出来ません。これでは新たにタケノコが生えてもどうする事も出来ずにただ竹になって行くのを指をくわえて見ているしかありません。兄がバカとは知っていましたが、
これほどバカだとは。兄の携帯に電話して抗議しました。兄はまた「分かった、分かった」です。私は、また電話して今から6か月以内に竹の処分をしろ、何というバカな事をしてくれたんかと言いました。母に言うと見に行って嘆き悲しんでいました。
6か月経っても兄は動かず。私がZ建設の常務さんに電話して案内しました。常務さんは「これは酷い。誰がこう言うバカな事をしちゃったんですか?あなたですか?」と言われたので
「私ではありません。兄です」と言いました。今度は専門の業者を連れて来られて案内して、我が家の土地の境界線とどこに作業用のトラックを駐車させてもらうのか2か所決めました。
平成22年の1月にアルバイトを雇って竹の撤去工事をしてもらう事になりました。その駐車スペースの家には私がお菓子を持って挨拶に行って(みな留守で仕事場や山中を探して
見つけて説明してよろしくお願いいたしますと頭を下げておきました。バカな兄を持った私はいつも要らん苦労をします。)
平成22年1月のある日、工事の初日です。私が行って挨拶をして色々と責任者と話しました。工事は足掛け10日間かかる予定が5日間で済みました。工事の結果を見に行きました。
奇麗にスッキリしていました。最初に案内した時にはもう新しい竹が40本生えていましたのですが、あのままにしていたら毎年竹が40本増え続ける事になって大事になっていました。
お礼を言いました。工事代735000円を振り込ました。
兄に言うと開き直って「あのままにしていれば竹はもう生えて来んから、あのままにしときゃ良かったんじゃ」とバカな事を言います。「こいつはダメだな」と1発で分かりました。
妹と弟が帰省して来た時に一緒にタケノコがりに行きましたが、兄は妹と弟に兄が自分で奇麗にしたんじゃと大嘘を平気で言っていました。
よくもこんな大嘘を平気でつけるなと感心しました。ウソつきは泥棒、いや詐欺です。
佐東君枝の件と言い、兄には大変失望しました。こんなバカにN家の将来は託せないと思いました。兄はいつも大ウソで塗り固めています。ウソの塊みたいな奴です。
その後も兄は竹を切ってはそのまま放置です。タケノコが生える場所は決まっていて、その場所に切った竹を投げ捨てていました、いつも。
平成23年の春に私は山の通路の剪定と下刈りとタケノコ取りに行くと途中で竹の処分を時に駐車スペースを貸して欲しいと依頼した人の息子が私をタケノコ泥棒と思って呼び止めて尋問しました。
私は住所の氏名を言って山に入る理由も言いましたが、まだ疑っているようで、その日の下刈りと通路の木々の剪定をして、それ以来もう行かないと頭に来ました。
車を停めさせてもらえないでしょうか?とお願いした時の事をもう忘れています。もうその日を最後に2度と行きません。今も今後もです。兄が相続しましたので、もう私は関係なしです。今は滅茶苦茶になっているでしょうね。
母が認知症なのにアパートの募集に行ってくると言う場面に出くわして私は必至に止めましたが、
兄は私の制止を振り切ってアパートの募集に行った結果、佐東君枝と言う大問題の女が来て私は断りましたが、キンキホームが
私のいない時に母に承諾させて大事になりました。おまけに契約書には一切書いていない車検の遥か昔に切れた車を
持って来てその車を盾に居座って往生しました。アパートは取り壊してアスファルト敷の駐車場に数ると言う計画でしたが、
パーになりました。
結局、佐東君枝は病気で死んで母の死後にアパートを私が相続して何とか車の処分をして遺品整理もしてアパートは解体してアスファルト敷の駐車場に今はなっています。
兄嫁は父の介護をするからと言うウソの名目で兄を見捨てて出て行って未だに帰って来ず。娘2人も兄と同じく母をホッタラカシ。私が知らないうちに結婚して家を出ていました。後から知りました。私には招待状もなしでした。長女の時は母の介護があるので無理でしたが、
招待状をくれたら電報くらいは送れたのにです。妹も弟も出席していて私だけが蚊帳の外でした。これって氏族放逐ですよね。
次女の時は母がナカムラ病院に入院中で無理したら東京まで行けたのですが、これも招待状もなし。兄一家は私をバカにしています。
母の介護も母の仕事の代理(賃貸物件の経営や管理や会計や物件の野良仕事や庭仕事など)もして超広大な母宅の庭仕事も
私はたった1人でして、介護だけでも大変なのに1人で10人分以上の仕事を背負いこみ、超大変でした。母以外はありがとうのあの字もなし。逆に当たり前のあの字でした。
毎日休み日日は1日もなくて凄いストレスの連続で私が色々な病気になり、複数の医療機関に通院しながら母の介護と
母の仕事の代理なども1人でやって来ました。兄はホッタラカシが大好きです。
母は相撲が大好きで、まだ最初の頃は力士の名前などを一緒にテレビを見ては教えてくれていました。また母は私が帰ろうとすると
「帰るんか。えーん。ちゃみちいよー・・・」とか「帰るんか。帰るな。一緒に寝よう・・・」とか言ったりしていました。
その後、母の認知症はどんどん進行して平成23年頃からは大相撲も見なくなりました。
年上の従姉が再々来ていましたが、母は私が来ると目の色が変わって、凄く嬉しそうな顔をするので、よっぽど良くしてもらっているんだろうねと言っていました。
その従姉が言うには「あなた(私の事)はかわいい息子であると同時にお母さんにとっては恋人でもあるんよ」と言っていました。
また、兄は普段はホッタラカシのくせに、妹や弟が帰省すると、いつもは朝見向きもしない母宅に来ては妹や弟に、いかにも普段から母宅に来ているように装っていました。
全く、人目があるのとないのでは正反対です兄は。
また母宅の床下収納庫にたくさん作ってあった梅酒もダメになりかけていて腐れば縁起が悪いので母がまだ家にいる時ですが、全部処分して容器も私が奇麗に洗って置きました。
また母宅の床下はシロアリで酷くやられていて高圧洗浄に来たと言う業者(母と昼食を食べていたらチャイムが鳴ったのでアパートの人が家賃を払いに来たと思い、
口の中は食べ物でいっぱいでしたが、出たら知らない男2人で、私は喋れない間々に好き勝手にされて、排水口が木の根っこでやられまくっているというので高圧洗浄をして
もらう事にして、翌日高圧洗浄してもらったら、床下に潜り込んで、シロアリがいるのを発見して、今ならシロアリ駆除もしてあげるよと言われて後日、シロアリ駆除してもらいましたが、何か変なので、Z建設の常務さんにシロアリ駆除の専門業者を紹介してもらいました。
シロアリは死んでおらず、インチキ業者と分かり、またしても妹からボロカスに貶されました。私の独断でしたらいけん。兄と相談して決めるように言います。
シロアリ駆除業者は「どうされますか?」と聞くので私が「お願いします」と言うと妹が「そう言う事をちゃんと相談してからにせんと」と怒ります。
いつも上手くやって来たのですが、たまたま騙されたのをいい事にここぞとばかりに私をボロカスに貶します。兄は優柔不断で決まりません。結局、見積りを出してもらい、兄に促してやっとOKが出ました。
その前に偽物業者にはアクア街にある消費者相談センターに行って相談したら、契約書(母でなくて私名義です。私の名義にしておいて良かったです)に不備があり、
何時まで経ってもクーリングオフ出来るそうで、電話してもらって原状回復工事と支払った代金の返済を求めたら相手側は了解しました。
すぐその場でハガキで内容証明書に準ずる特定・・・ハガキをアクア街の1階にある郵便局に持って行って出しました。帰宅したら電話があり、インチキ業者からで
シロアリ専門業者の駆除作業の前にやってもらう事になり、日時を調整して代金の全額返済と原状回復工事をしてもらいました。母名義で契約していたら無理でした。
そしてシロアリ駆除専門業者も雨が降ればダメなので、再々延期になって2012年11月30日にやっと朝から夕方までかけて駆除してもらいました。物置小屋もやられていたので
駆除してもらいました。外からは入れる床下には物がいっぱい詰め込んであって空気が流れないです。全部取り出してもらって、もの凄い量でした。
この中から木や紙類だけを捨てて下さいと言われました。数日後だそうです。
木や紙類だけ残して数日後に床下に戻しました。が、気や紙類の量は半端じゃない。Z建設に頼んで2回に渡って軽トラで持って帰ってもらいました。ついでに物置小屋にあった
梅干しの入った瓶も持って帰ってもらいました。
非常にスッキリしました。その後5年間、毎年1回床下の検査に来てもらってシロアリはおらず。でも今は兄の所有物になって兄はホッタラカシなので、換気口の前や床下は植物が
超いっぱいになっていてまたシロアリが来るでしょう。
兄宅も平生往生で周囲は草ボーボー、木ボーボーで寒気が悪くてシロアリがいると業者から指摘されましたが、兄は断りました。さあ、兄の運命やいかに。

私は平成24年1月に呂律が回らないので血圧を測ると240以上をオーバーしており測定不能。母が時々血圧が200を超えるので
もらっていたアダラートを2錠飲んでやっと計れて224/140mmHgもありました。その日は母の事で介護関係の所と打合せがあるので
何とか出席しましたが、言語中枢をやられたようでその後会話に苦労して脳神経外科に通院しようにも受診する暇もなし。
1人で言語療法をして短い会話が出来るようになり今は回復しています。その間に母の認知症はさらに進行して、兄はホッタラカシ。
妹が帰省する度に、粗探しばかりしては私をボロカスに貶して来ました。兄こそボロカスに貶すべきですが、何にもせん兄と
妹は談笑です。兄は私のやっている事をいかにも自分がやっているかのようにあちこちで大ウソを流布しては大ウソで塗り固めていました。
妹はまるで重箱の隅をほじくり返したように粗探しばかりします。妹には散々泣かされました。母が惨めな布団で寝ているので新しく布団を買って来てもさらに粗探ししては大文句です。いったいどうしたら文句を言わないのかと泣きました。
からしたら、兄を援護射撃するために粗探しばっかりしてどうでもいいような細かい事まで指図するのですね。これはハッキリ言って嫌がらせで虐めです。
今でも大ウソで塗り固めていますがね。今でも私を頼り切っているので往生しています。私は自分の事は自分でしてくれと拒否しています。
母は2011年にN眼科に受診して眼科から電話があり、私と母が一緒に来てくださいと言われました。私は母が眼科に行ったのを知りませんでした。
母の白内障が相当進行していて、緑内障もあり、レーザー照射をした痕跡があるのに母は否定するので誰か知っている人に来てほしかったそうです。
事情を説明しました。私が眼科にすぐ連れて行こうとしたら兄嫁が妨害して結局手遅れになった事を話しました。母の右目は失明しているそうです。微かに見えるのですが、
医学的には失明状態でした。白内障の手術を受けることになり、予約しました。が、翌日になって母は白内障の手術を受けるとは言っていないと言い張って絶対に手術せんと
言い張ります。N眼科に断るのに凄く苦労しました。結局、母の右目はその後完全に失明していました。
また甥っ子の結婚式がありましたが、母は出席出来ないので私も母の介護で出席出来ないので私が母と連名で電報を贈りました。その時にNTT西日本の電報のに入会しています。
母は2011年秋から昼夜逆転し始めました。認知症の症状が進行したからです。それを妹が薬が合っていないからと・・・に言われたと言って、私が悪いと罵ります。
薬のせいじゃないんですよ。認知症が進行したら昼夜逆転する事が多々あるのです。私は看護師をやってきているので分かります。素人の妹に言われたくない。
母の散髪も私が行っている理容院に連れて行っては散髪と洗髪をしてもらっていました。
私が普段から母や兄の事を話しているのでよく理解してもらえていました。
2012年にはそれまで下着は普通のパンツを履いていたんですが、トイレに間に合わない事が多くて、しかも夜寝ている間に尿失禁したりで紙パンツにしました。
最初は3回用のにして、それでも1日に2回では足りなくて、4回用のに換えて1日2回交換していました。朝、母宅に行くと、風呂場の水で便失禁した紙パンツを洗ってあり、紙パンツが水を大量に吸い込んで超大変だった事が多々ありました。母に言ってももう理解も出来ず。
水を吸い込んだ紙パンツはビニール袋に何重にも包んでも水分が滲みでますので往生していました。また4回分から最後の方は5回分のを買って使用していました。
母がナカムラ病院に入院した後も魔除けに残った分は取っておきました。母が亡くなってから処分しています。兄はとうとうオムツ交換もしてくれませんでした。要らんことをばかりしては忙しい私の仕事をどんどん増やしてくれました。
また洗濯も食事の残飯の処分も私がしていました。とにかく母が出来る事は段々と限られて来ていて大変でした。
妹と弟が帰省する度に、兄も来て母と4人分のゴミが大量に出るので、いつも私が大量の生ごみを出していました。誰もありがとうのあの字も言いません。逆に、粗探しばかりされては
ボロカスに貶される始末でした。
また母は寒がりなので、夏場にエアコンをつけていても私が留守をしていたら必ず消していますので、大急ぎで仕事を済ませてから母宅に急行していました。
いつぞやエアコンが故障して、食堂の隣にある応接室の古い何10年も経ったエアコンを使って涼しい風を入れて、エアコンは即日購入して翌日には交換してもらいました。
今度は監視モニター付きで床下の温度を測定して冷えすぎないようになっていまして、温度調整も相当高い温度にしていても、やっぱり母は私が仕事で留守中に再々エアコンを消して
いました。タイマーも切るのと入るのがあり、夏場も冬場もそれで、夜の〇〇時に切って、朝の〇〇時に入るようにしておきました。フィルター掃除はそれまで手作業でしたが、新しい分はエアコンを止めてからフィルター掃除をエアコン自体がするようになっていました。
また妹が帰省時はエアコンの設定温度を30度Cにして風が出ないようにしていたので、私は暑くて死にそうでした。母宅は扇風機がもう無くてコンセントが古い家なので扇風機を
以って来ようにも扇風機を設置する場所がなし。仕方なく他の部屋のエアコンで涼んでいました。
また弟が帰省した時にはいつも母の休憩場所兼寝床を占領するので母はいつも裏の部屋のエアコンの風も届かないような部屋のベッドで寝ていて泣いていました。
血圧が上がるので私が血圧を測っては高い時にはアダラートを飲ませていました。ついにしびれを切らして兄に言うと兄は「〇〇(弟の事)が怒るで」と長男とはとても思えないような
返事。私が弟に言うも「分かっとる」と返事だけ。とうとう弟が東京に帰っている時に手紙を書いて諭しました。妹は珍しく弟に言ってくれて数年間占領していた母の寝床を
やっと占領しなくなりました。弟はその後、脳梗塞で職場で倒れて救急車で神奈川県の病院に入院して、母と私は行けないので、母と私は手紙を書いて送りました。
また甥っ子が嫁さんと生まれたての長男を連れて母宅に来ました。母は嬉しそうでした。でももう母は認知症が相当進行していました。
2014年の2月末か3月上旬に私がノロウィルスに感染して酷い嘔吐で夜も眠れず。病院に受診して、兄にノロウィスルに感染したので母ちゃんに感染させたらいけんので、介護を数日間代わってくれと頼みましたが、「ダメじゃ」と拒否されました。
それまでにも体調が凄く悪い時に交代してくれと頼んでも拒否されたことがあります。私の代わりは最後までしてくれませんでした兄は。
結局、母親にノロウィルスを移してしまい、母は救急車で入院しました。数日間の入院で退院しました。
ある時母宅に行くと母は眠っていて嬉しそうに喋っています。凄くいい夢を見ているようでした。認知症になってもうれしい夢を見るのです。
目が覚めている間は母は辛い事ばかりなので、夢の中でもいい想いをしてもらおうと隣の食堂の椅子に腰かけて目が覚めるのを待っていました。そこへ兄がやって来て
大声を出すので、私は口の先に指を出して「しっ!」とゼスチャーすると兄は怒りました。すると母が目が覚めて「誰?」と言います。せっかくいい夢を見ていたのに兄はいつも要らん事をする。兄は普段母の事をホッタラカシなので母がどのような
状況なのかとと言う事が分からないのです。
2014年4月に琳琳の剪定中に腰を再度痛めて整形外科に受診して、毎日朝一番に受診してはリハビリしていました。
その頃は母の拒薬が激しくてとうとう大好きな物も食べずに、大好きなカロリー入りの三ツ矢サイダーも飲まず。
もうこのままでは私と母が共倒れになるには必至です。2014年5月14日の午後3時が母のH病院の定期の受診日です。
この日に母をH病院に入院させてもらおうと前日に入院用の荷物を用意しておいて車の助手席に荷物を載せて、当日の午後3時に
母を連れて家を出て車でH病院に受診して呼ばれて、母は私にすがって歩くのが精いっぱいでした。主治医にもう随分と
食べてないし、何も飲んでないので入院させて欲しいと頼みました。主治医は私が親孝行なのを知っているので了承してもらえました。
入院はさせてあげるけど横滑りの生活が始まるよと言われました。重度の認知症の母を受け入れてくれる施設や病院を探す生活が
始まるよと言う意味です。
兄ではダメだったでしょうね。そして色々と検査して病棟に入ったのが日が暮れてからになり、準夜の看護師さんのお機嫌は超悪い。
兄が連絡ノートを見ていたようで来ていましたが、私が看護師さんと対応していて兄はまるで他人事でした。
結局、主治医は同じグループの透析専門のクリニックの院長なので別の医師が主治医になりました。
それまで何もかも私1人がやっていたので週に1度入浴出来ればいい方だったのですが、1週間に3回入浴させてもらえました。
衣類やタオルのお洗濯は私がしていました。妹が帰省して来て毎日、昼と夕方兄と私と妹が行っては42Kcalの三ツ矢サイダー
飲ませていましたが、母は食事は一切食べずに点滴だけ最初の13日間してもらって後は法律の関係で点滴できないそうです。
そうしている間に主治医とケースワーカーと話し合って複数の施設や医療機関に面接に行きました。ナカムラ病院にも行きました。
私が理路整然と今までの経緯を説明しました。何しろ知っているのもやっているのも私だけですから。
ある日、ナカムラ病院のベッドが空いたという知らせがありました。2014年6月4日に介護タクシーで入院する事になりました。
ナカムラ病院でまた今までの経緯を説明しました。前回私が明瞭簡潔に説明したのでこの家族は協力的なと判断されたのです。
兄ではダメです。が、兄は人目があるのとないのでは大違いです。今度は人目があるもんだから、毎日ナカムラ病院に行っては
親孝行気取りのパフォーマンスです。私は忙しいので週3回しか行けません。母の洗濯物も私がやっていましたし、母の手の爪切りと
足の爪削りも私がやってきました。カンファレンスが6か月に1回ありましたが、いつも兄はぐずぐずと日時が決まらずにやっと決まったと
思ったらいつも私の都合の悪い日時になります。兄との私の相性は最悪です。占いでもそう出ています。兄は私にとって最悪のパートナーであるそうです。
結局兄は要領よく立ち回っては点数稼ぎがお上手です。ナカムラ病院では兄が親孝行で私は親不孝という事にされていました。
妹は事あるごとに、母がノロウィルスに感染してから急に体が弱ったと皮肉を言います。兄が代わってくれんかったからだと言うと、私を責めてヘルパーさんを雇えば良かったんじゃと言います。が、ヘルパーさんを雇っても教えるためには母宅に行って教えないといけませんし、母宅の玄関のカギも私が開けないといけません。そうこうしているうちに感染させてしまいます。それなのに妹は私のせいだと責めます。
妹は何もしない兄をヨイショして私の粗探しに徹していてボロカスに貶します。そして、兄と妹は談笑です。兄と妹は狂っています。絶対に許せません。
ナカムラ病院に母が入院してから昼夜逆転を治すために安定剤と睡眠薬を使って昼夜逆転が治りました。車いす生活でしたので、転倒の危険がなかったのです。家にいる時は
主治医に相談しても母が転倒するのが怖いから睡眠薬は出せないと言われていました。
ある日主治医から電話があり、母の心臓に異常があるようなのでと介護タクシー循環器科に受診しました。
受付では認知症の患者を連れて来たとご機嫌が悪かったです。結局、母は肥大性心筋炎という病気で、ペースメーカーは
付けずに薬も処方せずに、いつ止まるか分からない心臓はそのままにすることになりました。母は家にいる時から時々胸がドキドキすると訴えて波H病院に連れて行っていましたが、この病気が原因だったのです。
ナカムラ病院に連れて帰って
取って返して家に戻って遅い昼食を大急ぎで食べてすぐナカムラ病院に行ってカンファレンスでした。
もし兄が母を循環器科に連れて行ったら母のペースメーカーの手術をする事になり、付き添いは私でその間に母の代理の仕事は一切できなくなっていて大事になっていたでしょう。
また母はナカムラ病院に入院して無くなった義歯を総入れ歯にして作ってもらいました。食べれなかった食事も何とか食べるようになりました。
兄は母が家にいる時に、Y歯科で治療をしてもらっていて、母の義歯をここで作ってもらおうと考えていたそうですが、もしその時は母を歯科に連れて行くのは私です。
兄は絶対に連れて行きません。何でも自分が思いついた事は何でも私に無理強いさせていました兄は。が、その前に私が母をH病院に入院させたので、兄の目論見は外れました。

もし母を歯科まで毎日連れて行こうとしたら、それでなくとも何もかもたった1人でやっていて時間がなく、忙しいのが余計に忙しくなるだけで、もしかしたら
私は再度脳内出血か脳梗塞を起こして大事になっていたでしょう。
病棟を移って母は機嫌を悪くしてまた1からやり直しです。兄は相変わらず要領よく立ち回ります。私は色々と仕事をしながらなので
周2,3回行くのが精いっぱいでした。内科の病棟にに行かないかと言う話があり兄に言うとOK したので病院に伝えると兄が怒って
内科に行くのは了解していないと撤回させました。兄こそ認知症の可能性があります。兄は車のドアをリモコンで何度も開けたり閉めたりを今でも繰り返しています。
また7年前に頼んでおいた特養が空いたのでという話があり、言うと兄が見学に行って
ダメじゃと言うので渋々断りました。そうこうしているうちに2019年1月にインフルエンザで病棟閉鎖中に母の容態が急変して
私が行くと、母は多臓器不全を起こしているようでした。今度こそ内科の病棟に行くようです。重度の認知症なので6か月過ぎたからと言って
他所の病院に行ってくれとはとても言えないと言われました。もう数年前から要介護度5でした。
とうとう内科に行く日が決まりました。兄と妹は早く出かけました。私は仕事があるので遅くなりましたら、看護師さんから
「遅い」と怒られました。私が何もかも1人でやっているからN家は安泰なのですがね。
内科の病棟に転棟してから、母の目から涙がこぼれていてそっと拭きました。しばらくして母の命はもう長くないと悟り、平成31年4月29日に面会時に意識不明の母に
最後の爪切りと爪削りをして
「明日もくるけど、間に合わないかも知れん。もし間に合わなかったらごめんね。もう頑張らんでもええんじゃけえね。今までよく頑張ったね。と
別れの挨拶をしました。翌、平成最後の日にそれまで普段から奇麗にしていた母の庭を一層奇麗にして葬式があっても恥ずかしくないようにと
ギリギリまで庭仕事をしていました。主治医や兄から電話がありましたが、母を迎えるために必死でした。
そして車でナカムラ病院に向かいましたが、酷い渋滞で遅くなりました。到着して病棟に入ると今さっき母が亡くなったそうです。
母は死後の処置をしてもらっていました。兄が葬儀屋に電話して斎場で葬式をする事になったそうです。私は母が生前に「お母さん、お家に
帰りたいよ」と言っていたので母が亡くなったら母の遺体を家に連れて帰って「やっと家に帰れたね」と言ってあげたかったのですが。
兄は非情です。もう変更は出来ないそうです。霊安室に母の遺体が移されました。兄が新聞に掲載すると言うので、私は止めました。
新聞に載せたら口座が凍結されて、借りている会社や人がどこに払えばいいのか困るので、誰がどこを相続する事が決まるまで
母の死は内緒にして置こうと言いました。責任は全て取るからとも言いました。兄も妹も了解しました。
霊柩車が来て、病棟の師長さん以下10数名が見送ってくれました。お礼を言いました。
斎場には自分の車で行きました。妙蓮寺の住職さんに電話するも結局は弟さんがするからと言われて斎場の場所と名前と
通夜と葬儀の日時を伝えました。
お金は私が母の口座から引き出しました。令和元年5月1日、私の誕生日でもあるんですが、母の通夜でした。兄と妹ばっかりが
もてはやされて私は蚊帳の外でした。N家の大功労者に対してたいそう無礼です。5月2日は葬式。出棺して焼き場で母の遺体は
荼毘に付されました。母は長年認知症を患っているので頭蓋骨はボロボロだろうと思っていましたが、奇麗な頭蓋骨でした。
斎場に戻って自分の車で帰宅しました。
葬儀代などの支払いもしました。連休が明けて母の死後の手続きも私がして、準確定申告も私が税理士さんと協力してやりました。
母は平成23年の夜に私を呼んで分かる状態になっていて遺言状を書いていて私が保管していましたが、家庭裁判所に色々な書類を揃えて持って行く前に知り合いの弁護士に見てもらうと、
私に財産の分割を一任するという母がふと認識を一時的に回復して書いた遺言は相続人当事者であるので、無効だそうです。判例もあるそうで家庭裁判所に持って行ってもお金と時間の無駄になるだけだと言われました。
母の死後の手続きが済むまで凄くやる事が多かったです。死後の手続きの量は半端じゃなかったです。母の49日の法要と納骨の日に何でもない所で一時停止しなかったと
警察に止められて青切符を切られました。車には母の遺骨と遺影と喪主の兄と妹が乗っていて事情を説明しましたが、
警察官は「そんなん関係ない」と非情でした。昔なら、このようなケースの時は「今度から気を付けて下さいね」と見逃してくれるのですが。
その所は細い線が1本書いてあるだけで一時停止の標識も何もない、明らかにネズミ捕りの絶好の場所です。その後、大袈裟な表示にされていて
止まれと大きく書いてあり、一時停止の標識も設置されています。今でもあの警察官は母の顔に泥を塗ったと許せません。
その後税理士さんと母の財産の目録を作成しました。6つの金融機関には内緒ですので、もみじ銀行に貸している土地の面積と
琥珀の土地の面積の算出が大変でした。一緒に登記してあるからです。そして8月にみんなが揃った時に私が説明しましたが、
みんな大変甘くて幻想を抱いていました。母の財産は貯金がとても少なくて不動産と借金が異常に多いと言う格好です。
このようにしたのは兄のせいです。兄が私の反対を押し切っていつも私と反対の事を母にやらした結果です。
私は色々なパターンの相続案を提出していましたが、みな不満でした。しょうがないです。私は母の介護と相続税に換算したら6億9000万円相当の
財産を守って来ただけでも有難く思ってくれないと。私にはありがとうのあの字でなくて、いつも当たり前のあの字です。
結局、私が相続したのは遺留分の1/8にも満たない1/9で現金に至っては1/10以下です。税理士さんが「大功労者に対して
たいそう無礼ですね」と怒っておられました。色々な測量や色々な手続も名義変更も私がしました。兄は本当に何もしません。兄は自分の事は自分ですると言う至極当然の事が理解できていません。いつも私ありきです。
呆れるというよりはもうこれが兄なんだと達観しております。色々な所に母が亡くなった事とどこどこを誰が相続するのかも
私が書面にて連絡して実際に挨拶と説明にも行っています。謝罪もしました。ここでも兄がダメダメでした。兄は何もしませんし、出来ません。口座の相続の手続きもしました。後は兄に実際に口座の相続に行ってもらうだけです。が、兄は私に一緒に来てくれと言いますので、自分で行けと一喝しました。
兄は戸籍上は長男でも実質的な長男は
次男である私です。登記が完了したのは令和2年1月16日です。土地家屋調査士さんなどに固定資産税などがおかしくならないように
手続もしてもらっておきました。
母が亡くなった後の物件の管理や広大な母宅の庭仕事も私がやって来ましたが、令和2年1月16日をもって終了して自分の所だけにしました。
兄は本当に何も出来ない輩ですね。ホッタラカシです。会計も私が教えましたが、やる気なし。もう放置しています。
もう母の財産でなくて兄の財産なんだから兄がすべきです。私は至極当然の事をしているだけですよ。
遺産分割は私が主導で行いましたが、みんな私に対する評価はボロカスでした。分かっていない。どれだけ大変だったかという事を全く理解していない。
税理士さんが私が母の事業を相続しないので、「あなた(私の事)だから出来るんであって、お兄さんでは無理だと思うんですよ」と言われましたが、
私は「もう毎日が月曜日の休みの日が全くない生活が嫌なんです」とハッキリ否定しました。兄は今でもマイペースで悠々自適です。やる事をやっていないからです。
ホッタラカシです。そのうち、住人から苦情が出て往生するでしょう。ハッキリ言って兄は舐めていますね。住人から苦情が出ても私にやらせようとするでしょうが、
もうしません。母には恩義があるので喜んで代理をしていましたが、兄には恨みこそあれ恩義の1つもありません。往生しやがれです。
兄が相続した母宅の庭もホッタラカシなので、草ボーボー、木ボーボーになり落ち葉も超いっぱい。新しく木が生えてもホッタラカシですくすくと育って大きくなっています。
植木屋さんに兄が頼んでも対応は私がするように仕向けています。自分の事は自分ですると言う至極当然の理屈が分かっておりません。植木屋さんも私の話を聞いて納得されています。
植木屋さんの仕事は兄がホッタラカシなのでさらに増えました。お金は兄が帰って来て払っていますが、今までよりも高くついているでしょう。

今でも母が時々夢に出でて来て嬉しそうで元気そうです。母があの世で元気にしているみたいで安堵しております。
そして何故母が執拗に「今の変な病院を辞めて私の仕事を覚えて欲しいの」と懇願したのか分かりました。
もしもあのままだったら、今頃はあの危険なワクチンを立場上率先して打たないといけませんでした。もしかしたら今頃は私は死んでいたかも知れません。
または重篤な副反応で障害者になっていたかもしれません。母のお願いを聞き入れたお陰でワクチンの医療従事者での強制接種は免れました。
色々と凄く苦労したけれども、母のお陰で今は4つの医療機関に通院しながらも元気にやっています。母にお礼をいつも言っています。ありがとうね母ちゃん。
私は次男なのに長男の相をしていて占い師に何回も言われていました。長男の相とは先祖の霊を祭り、お墓を守り、親孝行をするという役目だそうです。
が、私には妻も子供もいません。昨年の1月に松岡紫鳳先生にお会いして鑑定してもらいました。色々とアドバイスもしていただきました。
私には後継者がいないという事を一発で看破されていました。私に合わせた特注の財布を54万円で購入しました。
また私は非常にいい手相をしていて、兄の事も言うと兄の事も調べてもらい兄は非情に珍しい生まれ年も生まれた月も生まれた日も亥で、何を考えているのか分からないスーパー宇宙人だそうで、距離を置いた方がいいと言われました。
このまま私に跡取りが出来ないと平安時代から続いているN家の血筋が絶えてしまいます。何とか若い女性と結婚して男の子を生んでもらいたいですが、こればっかりは
結婚に縁遠い私には無理でしょう。
もうN家の血筋が絶えるのを待つしかありません。
母親に対してもN家に対しても申し訳がございません。母ちゃん、ご先祖様、ごめんなさい。
なお、私は兄の介護は絶対にしませんし、兄の連帯保証人にはなりませんし、兄が死んだら兄の遺産相続は放棄します。兄の死後の手続きも準確定申告も遺品整理なども私はしません。兄嫁や姪っ子がするべきです。ちゃんと家族がいるのですからね。
兄一家が生前から私に協力的であれば、違うのですが、兄一家は私を使用人扱いして来てバカにして来ました。母の事もホッタラカシで私に全部丸投げでした。1番許せんのは、私がしてきた事をいかにも自分がしてきたかのようにあちこちに大嘘を言って大ウソで塗り固めている事です。
私が死んだときのために、遺書を書いておきます。財産は国に寄贈する由を書いて、身内で相続人はいない事になり、妹の息子(甥っ子)を遺言執行人に指名して(相続人当事者でないので合法です。)、生前に現金200万円用意しておいて
簡単な葬儀と納骨をしてもらい、準確定申告と遺品整理をしてもらいます。車があれば相続財産管財人を立てて処分してもらいます(これが1番お金がかかる)。
そして簡保の死亡保険金受取人が甥っ子なので、死亡保険金200万円を受け取ってもらいます。傷害保険の死亡保険金は1170万円です。これは兄弟が亡くなっていれば、代襲相続で兄弟の子供が受取人になります。甥っ子と姪っ子2人です。1人当たり390万円になります。保険証書は冷蔵庫に入れておきます。遺言は公正証書にするとどこの公証役場に預けたのか分からないので、面倒な手続きが必要ですが、自筆遺言にして冷蔵庫に入れておきます。
余ったお金は口座に返して、そして全て済んでから口座を凍結してもらいます。
もしも私に若い嫁さんが来て跡取りの子供が出来たらまた別の遺言にします。平安時代から続く血筋を絶やすのは勿体ないですからね。
なお母は重要な郵便物や書類を無くすし、通帳やカードも再々紛失していて、再発行してもらうのに本人確認が必要で母を連れて行っては再々再発行hしてもらっています。
切りがないので、母の通帳やカードは私が預かり、契約書なども私が再発行してもらって預かっていました。
が、権利証や登記事項証明書は再発行してもらえません。母はそれらも紛失していました。兄弟や親族の協力は一切得られずに大変苦労しました。
また母の現金を増やすためにファンドを解約して現金化して、4000万円の敷金(もみじ銀行の)を確保すべく、カープV預金の通帳を作ってそれに移していました。
また、段原4丁目の駐車場の琳琳を改装した時の借金もいざとなれば相続の時に売れるように借金の残高を母を連れて銀行に行って全額返済しました。抵当権の抹消の
手続も私がしています。
また吉見園N駐車場は返済金が月13万9000円もあり、満車でも収入は99000年です。母を連れてもみじ銀行に行き、色々な手続をして1500万円を返済して月々の返済を5万円ちょっとにしました。
また琳琳の借金の返済は定額金利でしたので、3年に1回契約しなおすようで、兄はいつもグズグズしていて決まらず。おまけに連帯保証人の兄嫁は嫌だと降りて
私が連帯保証人になりました。母の死後はもみじ銀行と交渉して連帯保証人を降りて兄の長女がなりました。
兄がいつもグズグズして決まらないので、私はもう嫌になって少し高くなるけど、更新せずに
変動相場制のに変えました。兄は優柔不断でグズグズしていつも決まりません。兄は優柔不断な上に独裁者でいつも私と正反対の事を嫌がらせのようにします。
兄や妹は私の事を独裁者だといつも非難していましたが、私は母が認知症で成人後見人を立てたらメリットよりもデメリットの方が大きいのおで敢えて後見人は立てず。
後見人は資産家の母では家族はなれません。弁護士がなります。変な弁護士に当たれば大事になります。その他、色々とデメリットが多すぎます。
私は独裁者ではありません。みなが協力の「きょ」の字もしないから、しょうがなくたった1人でやっていける道を選んだだけです。
私の兄弟たちは、ありがとうのあの字もなくて文句ばかりは1億人前です。今でもです。
兄一家は私を当てにしています。でも兄が死んだら葬式の喪主なら自費で簡単にしますが、兄が介護が必要になっても兄の介護は私は絶対にしませんし、連帯保証人にもなりませんし、兄が死ねば兄の遺産は相続放棄します。兄の死後の手続きも準確定申告もしません。兄には家族がいるのだから兄嫁や2人の娘がすればいいのです。私は兄一家や兄弟たちに散々バカにされて来ましたから、もう自分たちの事は自分たちでやってくれです。私は決して母と私をないがしろにしてきた輩は許しません。兄一家と妹は関わりたくありません。
弟は兄と妹に騙されているだけすので、弟は許します。
母が病気になって分かった事があります。それは兄弟たちが私が勤務していた最低最悪の養神館病院のトップ連中から一般職員に至るまでの骨の髄まで腐りきった輩とソックリだと言う事です。もし母が病にならなければ兄弟たちの本性が分からずに母が死んでから私が非常に苦労して往生していたでしょう。そう言う事を教えてくれた母には感謝しております。ありがとうね母ちゃん。

なお、私は母が亡くなった時は悲しくありませんでした。母が認知症になってからどんどん病気が進行して心も体も不自由になって行きましたので、母は不自由な心と体を
脱ぎ棄てて、自由な心と体を取り戻して今頃は自由にあちこちを飛び回っていると思っています。母は私が良くしてくれたので、感謝していてご先祖様も母も今は私を
あの世から助けてくれているような気がしています。
母が病気になってから私の日常は凄く悪い方に変化しました。今までの日常は消え失せ、酷い状況でした。それが10数年続いたのです。この時に私は思いました。
当たり前の日常生活が何にも代えがたい幸せなのだと。当たり前の日常生活がどれほど幸せなのかとつくづくと感じました。私の兄弟たちには永久に分からないでしょうね。
みなさん、当たり前の日常生活が凄い幸せなんですよ。当たり前の日常生活が奪われないように家族や親族と仲良く協力して下さいね。たった1人で10人分の仕事を10数年間するのは
辛かったです。色々な病気にかかりました。今でも心や体は悲鳴を上げています。
長文を最後まで読んで下さった方には感謝いたします。ありがとうございます。