tarobee8のブログ(戯言)

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三国志の人物像~劉備玄徳

2021年3月18日

劉備玄徳。姓は「劉」名は「備」字は「玄徳」161年~223年。
身長172.5cmで耳が異常に大きく自分でも見えていたという。また手が長く膝まで届いていたそうだ。

劉備玄徳といえば、物語三国志では聖人君主に描いてあり本当にそうなのかと思えるほどだ。
諸葛亮孔明とのコンビで玄徳の人生の終盤に来て大逆転したのは確かだった。
妻も大勢いて、穆皇后呉氏(呉壱の妹)、糜夫人(糜竺の妹)、甘貴人、孫夫人などがいる(その他多数)。子に後継者の劉禅の他、劉永劉理がいる。子宝に恵まれない頃、劉封荊州での関羽孟達の確執にも関わりあり。それが元で関羽が戦死した)を養子にしていたが、甘夫人に劉禅が産まれると継嗣から外されふて腐れ、態度も横柄なため後に孔明に処刑されている。
前漢の中山靖王劉勝(景帝の皇子)の庶子の陸成亭侯・劉貞の末裔と称しているが、中国には「劉姓」は多い。が、当時の漢では劉邦の子孫には税の減額など特権が認められていた。もしウソなら重大な法律違反になるので、本当かも知れない。中山靖王劉勝には子供が数十人いたのでもし本当だとしても王族としての価値は低いと思われる。何代目かには、税の滞納をした罪で王族を剥奪されている。なので、系譜が絶えていて本当のことは分かっていない。
涿(たく)郡涿県(現在の河北省張家口市涿鹿県(涿鹿鎮))の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備が幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。
幼い頃、皇帝の乗る馬車を見て「僕も大きくなったらあれに乗るんだ」と言って叔父の劉子敬に叱られたというエピソードがある。でも本当に皇帝になったんですよ。60歳にしてね。人生あきらめちゃいけませんよ。
15歳の時、母のいいつけで(教育ママだったのかも?)従兄弟の劉徳然とともに儒学者盧植子幹の元で学ぶ。熟の同僚に公孫瓚がおり、後に黄巾の乱の折から徐州入りまで浅からぬ縁があったのだ。劉備玄徳は勉学よりも闘犬や乗馬を好み、派手な衣装を身にまとい仲間に取り巻かれ・・・とある。織田信長の若い頃みたいなような。物語に描かれている筵を売り母親の生計を助ける~といった真面目な青年ではなかったようだ。が、家が貧しかったのは確かなようで、叔父の劉元起の資金援助があったから塾に学べたのだ。
また馬商人と旧知で、資金援助を受けて私兵を募っていた。または馬商人の用心棒だったという説もある。
が、やがて関羽雲長と張飛翼徳(益徳)にめぐり合い三人力を合わせて黄巾討伐に出たのが運命の序章だった。三人の年齢には諸説があり、関羽雲長は劉備玄徳より年長だが、劉備玄徳を立てて弟分になったというのが一般的だ。または本当に劉備玄徳の方が年上だったという説もある。張飛翼徳(益徳)は玄徳や雲長よりも随分若かったようだ。
また、黄巾の乱が発生すると、関羽張飛・簡雍らと共に義勇軍を結成し名を上げた。その功により安熹県の尉(警察)に任命された。しかし、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立てて督郵を襲撃し、柱に縛り付けて杖(じょう)で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。(物語では、督郵に賄賂を要求され散々貶された挙句、官職に見切りをつけ督郵を縛って吊るし上げて逃げた事になってますが、玄徳を美化するための創作です)

その後、公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬とされ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。戦功をたてたので、公孫瓚劉備を仮に平原の県令(長官)にして、その後平原国の相とした。これも少年時代に公孫瓚と同じ塾に通っていた縁です。これがきっかけで色んな官職を経験し名が知れて軍功も上げて群雄の仲間入りをしました。

劉備玄徳の人生は若い頃から必ず誰かしらの引き立てがあったようだ。どんな不遇な時でもなんとか乗り切っている。決してあきらめない性格が運を引き寄せたのだろう。が、若い頃は血気盛んな性格であったようだ。
まさに、たたき上げの初代社長(初代皇帝)といった感がある。あっしの家の隣に昔、太鼓を打ってパンを売り歩いて、ついには「○○○堂」という会社を設立した人が住んでいた。それを思い起こす。人情に厚く、弱者に優しい人だった。いつもデカパン一丁でじょろで庭の花や野菜に水を撒いていたなあ。が、その人の死後20年、2代目に会社は倒産してしまった。なんか蜀の国と共通したものを感じます。私事ですみません。
劉備玄徳のその後については、曹操孟徳と諸葛亮孔明の編に記述してあるので割愛させていただきます。