tarobee8のブログ(戯言)

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走れメロス

2021年10月8日

メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。今日未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里離れたこのシラクスの町にやってきた。メロスには父も、母もない。女房もない。十六の、内気な妹と二人暮らしだ。この妹は、村のある律儀な一牧人を、近々、花婿として迎えることになっていた。結婚式も間近なのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣装やら祝宴のごちそうやらを買いに、はるばる町にやってきたのだ。まず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今はこのシラクスの町で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく会わなかったのだから、訪ねていくのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、町の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もうすでに日も落ちて、町の暗いのはあたりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、町全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になってきた。道で会った若い衆を捕まえて、何かあったのか、二年前にこの町に来たときは、夜でも皆が歌を歌って、町はにぎやかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に会い、今度はもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺の体を揺すぶって質問を重ねた。老爺は、辺りをはばかる低声で、僅か答えた。

「王様は、人を殺します。」

「なぜ殺すのだ。」

「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心をもってはおりませぬ。」

「たくさんの人を殺したのか。」

「はい、初めは王様の妹婿様を。それから、ご自身のお世継ぎを。それから、妹様を。それから、妹様のお子様を。それから、皇后様を。それから、賢臣のアレキス様を。」

「驚いた。国王は乱心か。」

「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずることができぬ、というのです。この頃は、臣下の心をも、お疑いになり、少しくはでな暮らしをしている者には、人質一人ずつ差し出すことを命じております。ご命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。今日は、六人殺されました。」

聞いて、メロスは激怒した。「あきれた王だ。生かしておけぬ。」

メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城に入っていった。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出てきたので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。

「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間のしわは、刻み込まれたように深かった。

「町を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。

「おまえがか?」王は、憫笑した。「しかたのないやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」

「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる。」

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落ち着いてつぶやき、ほっとため息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」



「なんのための平和だ。自分の地位を守るためか。」今度はメロスが嘲笑した。「罪のない人を殺して、なにが平和だ。」

「黙れ。」王は、さっと顔を上げて報いた。「口では、どんな清らかなことでも言える。わしには、人のはらわたの奥底が見えすいてならぬ。おまえだって、今に、はりつけになってから、泣いてわびたって聞かぬぞ。」

「ああ、王はりこうだ。うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらい、「ただ、私に情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えてください。たった一人の妹に、亭主をもたせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰ってきます。」



「ばかな。」と暴君は、しわがれた声で低く笑った。「とんでもないうそを言うわい。逃がした小鳥が帰ってくるというのか。」

「そうです。帰ってくるのです。」メロスは必死で言いはった。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許してください。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この町にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いていこう。私が逃げてしまって、三日めの日暮れまで、ここに帰ってこなかったら、あの友人を絞め殺してください。頼む、そうしてください。」

それを聞いて王は、残虐な気持ちで、そっとほくそ笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰ってこないに決まっている。このうそつきにだまされたふりして、放してやるのもおもしろい。そうして身代わりの男を、三日めに殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代わりの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいうやつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。



「願いを、きいた。その身代わりを呼ぶがよい。三日めには日没までに帰ってこい。遅れたら、その身代わりを、きっと殺すぞ。ちょっと遅れてくるがいい。おまえの罪は、永遠に許してやろうぞ。」

「なに、何をおっしゃる。」

「はは。命が大事だったら、遅れてこい。おまえの心は、わかっているぞ。」

メロスは悔しく、じだんだ踏んだ。ものも言いたくなくなった。

竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、よき友とよき友は、二年ぶりで相会うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱き締めた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。

メロスはその夜、一睡もせず十里の道を急ぎに急いで、村へ到着したのは、明くる日の午前、日はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事を始めていた。メロスの十六の妹も、今日は兄の代わりに羊群の番をしていた。よろめいて歩いてくる兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。



「なんでもない。」メロスは無理に笑おうと努めた。「町に用事を残してきた。またすぐ町に行かなければならぬ。明日、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」

妹は頬を赤らめた。

「うれしいか。きれいな衣装も買ってきた。さあ、これから行って、村の人たちに知らせてこい。結婚式は、明日だと。」

メロスは、また、よろよろと歩きだし、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、まもなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

目が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらにはまだなんの支度もできていない、ぶどうの季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことはできぬ、どうか明日にしてくれたまえ、とさらに押して頼んだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論を続けて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓がすんだ頃、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降りだし、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、なにか不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持ちを引き立て、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌を歌い、手を打った。メロスも、満面に喜色をたたえ、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。このよい人たちと生涯暮らしていきたいと願ったが、今は、自分の体で、自分のものではない。ままならぬことである。メロスは、わが身にむち打ち、ついに出発を決意した。明日の日没までには、まだ十分の時がある。ちょっとひと眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも長くこの家にぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、



「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっと御免こうむって眠りたい。目が覚めたら、すぐに町に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しいことはない。おまえの兄の、いちばん嫌いなものは、人を疑うことと、それから、うそをつくことだ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でもつくってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りをもっていろ。」

花嫁は、夢見心地でうなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、

「支度のないのはお互いさまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何もない。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」

花婿はもみ手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋に潜り込んで、死んだように深く眠った。

目が覚めたのは明くる日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝すごしたか、いや、まだまだだいじょうぶ、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。今日はぜひとも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑ってはりつけの台に上ってやる。メロスは、悠々と身支度を始めた。雨も、幾分小降りになっている様子である。身支度はできた。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢のごとく走り出た。



私は、今宵、殺される。殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。王の奸佞邪知を打ち破るために走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若いときから名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ち止まりそうになった。えい、えいと大声あげて自身を叱りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨もやみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなってきた。メロスは額の汗を拳で払い、ここまで来ればだいじょうぶ、もはや故郷への未練はない。妹たちは、きっとよい夫婦になるだろう。私には、今、なんの気がかりもないはずだ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。ゆっくり歩こう、ともちまえののんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌いだした。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降ってわいた災難、メロスの足は、はたと、止まった。見よ、前方の川を。昨日の豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流とうとうと下流に集まり、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、こっぱみじんに橋桁をはね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺め回し、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず波にさらわれて影なく、渡し守の姿も見えない。流れはいよいよ、膨れあがり、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を上げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れくるう流れを! 時は刻々に過ぎていきます。太陽もすでに真昼どきです。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことができなかったら、あのよい友達が、私のために死ぬのです。」

濁流は、メロスの叫びをせせら笑うごとく、ますます激しく躍りくるう。波は波をのみ、巻き、あおり立て、そうして時は、刻一刻と消えていく。今はメロスも覚悟した。泳ぎきるよりほかにない。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、今こそ発揮してみせる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れくるう波を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきとかき分けかき分け、獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、みごと、対岸の樹木の幹に、すがりつくことができたのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。一刻といえども、無駄にはできない。日はすでに西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠を登り、登りきって、ほっとしたとき、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。

「待て。」

「何をするのだ。私は日の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」

「どっこい放さぬ。持ち物全部を置いていけ。」

「私には命のほかには何もない。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」

「その、命が欲しいのだ。」

「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」

山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り上げた。メロスはひょいと、体を折り曲げ、飛鳥のごとく身近の一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、

「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駆け降りたが、さすがに疲労し、おりから午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照ってきて、メロスは幾度となくめまいを感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩歩いて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上がることができぬのだ。天を仰いで、悔し泣きに泣きだした。ああ、あ、濁流を泳ぎきり、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破してきたメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れきって動けなくなるとは情けない。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、希代の不信の人間、まさしく王の思うつぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはやいも虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝転がった。身体疲労すれば、精神もともにやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いなふてくされた根性が、心の隅に巣くった。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんもなかった。神も照覧、私は精いっぱいに努めてきたのだ。動けなくなるまで走ってきたのだ。私は不信の徒ではない。ああ、できることなら私の胸を断ち割って、真紅の心臓をお目にかけたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事なときに、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、初めから何もしないのと同じことだ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定まった運命なのかもしれない。セリヌンティウスよ、許してくれ。きみは、いつでも私を信じた。私もきみを、欺かなかった。私たちは、本当によい友と友であったのだ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことはなかった。今だって、きみは私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世でいちばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。きみを欺くつもりは、みじんもなかった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駆け降りてきたのだ。私だから、できたのだよ。ああ、このうえ、私に望みたもうな。放っておいてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしがない。笑ってくれ。王は私に、ちょっと遅れてこい、と耳打ちした。遅れたら、身代わりを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、遅れていくだろう。王は、独り合点して私を笑い、そうしてこともなく私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切り者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。きみと一緒に死なせてくれ。きみだけは私を信じてくれるにちがいない。いや、それも私の、独りよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。村には私の家がある。羊もいる。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すようなことはしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、なにもかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。



ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞こえた。そっと頭をもたげ、息をのんで耳を澄ました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上がって、見ると、岩の裂けめから滾々と、なにか小さくささやきながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、ひと口飲んだ。ほうと長いため息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労回復とともに、僅かながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、木々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでおわび、などと気のいいことは言っておられぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。今はただその一事だ。走れ! メロス。

私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔のささやきは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬことができるぞ。ああ、日が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生まれたときから正直な男であった。正直な男のままにして死なせてください。

道行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴飛ばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も速く走った。一団の旅人とさっとすれ違った瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「今頃は、あの男も、はりつけにかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、今こんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。遅れてはならぬ。愛と誠の力を、今こそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、今は、ほとんど全裸体であった。呼吸もできず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向こうに小さく、シラクスの町の塔楼が見える。塔楼は、夕日を受けてきらきら光っている。

「ああ、メロス様。」うめくような声が、風とともに聞こえた。

「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。

「フィロストラトスでございます。あなたのお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、だめでございます。無駄でございます。走るのは、やめてください。もう、あのかたをお助けになることはできません。」

「いや、まだ日は沈まぬ。」

「ちょうど今、あのかたが死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。お恨み申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

「いや、まだ日は沈まぬ。」メロスは胸の張りさける思いで、赤く大きい夕日ばかりを見つめていた。走るよりほかはない。



「やめてください。走るのは、やめてください。今はご自分のお命が大事です。あのかたは、あなたを信じておりました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあのかたをからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念をもち続けている様子でございました。」

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついてこい! フィロストラトス。」

「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」

言うにや及ぶ。まだ日は沈まぬ。最後の死力を尽くして、メロスは走った。メロスの頭は、空っぽだ。なにひとつ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力に引きずられて走った。日は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとしたとき、メロスは疾風のごとく刑場に突入した。間に合った。

「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰ってきた。約束のとおり、今、帰ってきた。」と大声で刑場の群衆に向かって叫んだつもりであったが、喉がつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、一人として彼の到着に気がつかない。すでにはりつけの柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々につり上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆をかき分け、かき分け、

「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精いっぱいに叫びながら、ついにはりつけ台に上り、つり上げられてゆく友の両足に、かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。許せ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

セリヌンティウス。」メロスは目に涙を浮かべて言った。「私を殴れ。力いっぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。きみがもし私を殴ってくれなかったら、私はきみと抱擁する資格さえないのだ。殴れ。」

セリヌンティウスは、全てを察した様子でうなずき、刑場いっぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しくほほえみ、

「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらときみを疑った。生まれて、初めてきみを疑った。きみが私を殴ってくれなければ、私はきみと抱擁できない。」

メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。

「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた。

群衆の中からも、歔欷の声が聞こえた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人のさまを、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔を赤らめて、こう言った。

「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

どっと群衆の間に、歓声が起こった。

「万歳、王様万歳。」

一人の少女が、緋のマントをメロスにささげた。メロスは、まごついた。よき友は、気をきかせて教えてやった。

「メロス、きみは、真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい。このかわいい娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく悔しいのだ。」

勇者は、ひどく赤面した。



〈出典『太宰治全集3』〉