tarobee8のブログ(戯言)

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何故、慶喜は逃げたのか?

2021年12月12日

伊勢雅臣氏のメルマガより

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国柄探訪: 近代日本を生んだ水戸学の系譜

 イエール大学のマイケル・ソントン氏は、水戸を「世界で最も重要な革命の生誕地」と呼ぶ。
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■1.渋沢栄一に対する「天の使命」

 渋沢栄一を描いたNHK大河ドラマ『晴天を衝(つ)け』もいよいよ終盤で、もとの主君にして最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の伝記編纂を始める場面に入ります。

 この伝記編纂は引退後の暇つぶしというようなものではなく、「御伝記編纂が、私に対する天の使命である」とまで、その序文の冒頭に書くほどの重大事でした[鹿島、4068]。 渋沢が周囲の反対を押し切って引退したのも、「第一に幕末史を著述して恩主徳川慶喜公の進退を明らかに支度(したい)ため」と述べています。

徳川慶喜公の進退」とは、欧州歴訪中に新聞で読んだ大政奉還鳥羽伏見の戦いの事でした。

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 殊に驚いたのは、鳥羽・伏見の出来事であつた。第一に政権返上が如何なる御趣意であらうかとの疑を持つて居る処へ、此の如き開戦の事を聞いては、何故に公は斯かる無謀な事をなされたかといふ憾(かん、残念に思う気持ち)を持たざるを得なかつた。[鹿島、4085]
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 慶応3(1867)年11月9日に慶喜は朝廷に大政奉還を上表し、翌年1月3日、王政復古の大号令が発せられましたが、辞官納地(官位返上と領地返上)を求められて、家臣たちが薩摩藩の陰謀だと激高しました。慶喜は戦闘が始まるのを恐れて大阪城に引っ込みましたが、鳥羽・伏見の戦いが起こってしまい、船で江戸城に戻り、謹慎してしまうのです。

「臆病者」「暗愚」などと非難されるような行動を、なぜ慶喜がとったのか、渋沢には不思議でした。いや、渋沢だけでなく日本の歴史の中でも最大級の謎でした。


■2.「愚と言われようが臆病者と嘲(あざけ)られようが」

 渋沢は帰国後、慶喜を訪ねてその理由を聞いたのですが、「左様の繰言(くりごと)は甲斐(かい)なき事である」と答えませんでした。

 渋沢がその理由を知ったのは、それから20年も経った後でした。慶喜は、「それはひとえに皇国の分裂を避けるためであり、たとえ幕府の力で薩摩などを圧迫し得たとしても、国家の実力を損ずる事は莫大である、欧米諸国との外交が難しい時に、そのような事をしては皇国を顧みざる行動となる」と考えたのです。

 そして、「ここに至って弁解するだけで物議を増して、なおさら事が紛糾するから、愚と言われようが臆病者と嘲(あざけ)られようが、恭順謹慎するを以て一貫するより外はない。薩長から仕掛けられた事ではあるが、天子をいただいている以上は、その無理を通させるのが臣子の分である、と覚悟した」というのです。

 こうして国家百年の計を考えて身を引いた慶喜の心を理解するにおよんで、渋沢は主君の偉大さに深い尊敬の念を覚えるとともに、強い義憤が湧いてきました。

 この時、慶喜がいきり立った幕臣らとともに薩長の軍と戦っていたら、日本は大規模な内乱に陥り、幕府をフランスが、薩長をイギリスが支援し、北からはロシアが侵入して、維新どころではなかったでしょう。そのまま外国の植民地に転落した可能性が大でした。

 とすれば、慶喜こそ「維新の大恩人」なのに、その偉業が人知れず歴史の淵に沈んでいき、暗愚、臆病者という批判ばかりまかり通っているのです。これはどうしても公正な伝記を書いて、主君の名誉を挽回しなければならない、と渋沢は思ったのです。これが渋沢にとっての「天の使命」でした。

 渋沢は伝記以外にも慶喜の名誉回復にも努めました。明治天皇慶喜の朝廷での位階をたびたび引き上げ、明治31(1898)年には拝謁を許可し、「逆賊」「朝敵」の汚名が雪(そそ)がれるます。明治35(1902)年には公爵の位を与えられ、同時に貴族院議員となりました。慶喜明治維新への貢献は、公に認められたのです。


■3.尊皇を学びつつ、将軍への道を歩ませた天の配剤

 この事実を知れば、幕末の動乱の時代に、天はよくも慶喜のような英邁な人物を最後の将軍に配してくれたものと、思わざるを得ません。

 慶喜天保8(1837)年、水戸藩9代藩主・徳川斉昭(なりあき)の7男として生まれました。水戸徳川家は、家康の第11子頼房(よりふさ)を家祖とします。尾張徳川家紀州徳川家とともに御三家をなしていました。

 しかし、頼房の子・2代藩主の徳川光圀(みつくに)以来、勤皇の志厚く、慶喜は父・斉昭から「幕府と朝廷が戦うことに至ったら、たとえ幕府への不服従を意味したとしても、皇室に対して弓を引いてはならない」と教え諭されて育ちました。

 また、後述する会沢正志斎などから、漢籍や日本の古典とともに、皇室の尊貴を説く国体論や、西洋諸国からの国防論を学びました。「天子をいただいている以上は」という考え方は、こうした幼少の頃からの学問によるものでした。

 慶喜は子供の時から聡明で、12代将軍・家慶(いえよし)から、御三卿(ごさんきょう)の一つである一橋家の当主に指名されました。御三卿とは江戸時代中期に分家した徳川氏の支族で、御三家よりは格下ですが、将軍の後継者を出せる家柄でした。

 これにより将来の将軍への道が広がるのですが、同時に水戸藩の激しい内紛から一歩、距離を置いて将来に備えることができました。この経歴を見ると、まさに天は周到に準備をして、慶喜に幕府の幕引きをさせ、新政府へとバトンを渡させたように思われます。


■4.水戸光圀が始めた200年の『大日本史』編纂プロジェクト

 水戸藩で生まれた「水戸学」は、慶喜のみならず、幕末の志士たちに、日本を皇室を中心とする統一国家に再編し、西洋諸国の植民地主義に立ち向かう方途を説きました。その方途に従って、王政復古がなされて、明治維新となったのです。そして維新の後も、日本の近代化を後押しし、有色人種国家で世界最初の近代的大国を実現したのです。

 いわば、近代日本を構想したのは、水戸学であったと言えます。イエール大学の博士研究員マイケル・ソントン氏の『水戸維新 近代日本はかくして創られた』は水戸学の発展を人物中心に鮮やかに追った好著ですが、これに従って、この近代日本を創った学問の足跡を概観してみましょう。

 まず水戸学の始祖、2代藩主・光圀(みつくに)。光圀は200年にわたって続けられる、皇室を中心とした通史『大日本史』のプロジェクトを始めました。光圀は「皇室史を述べることが、高潔なリーダーシップの在り方を探求する方法」とみていた、とソントン氏はいいます。

「高潔なリーダーシップ」とは、皇室が国民の安寧をひたすらに祈られてきた伝統です。それがあるからこそ、代々の多くの国民が皇室を支え、その祈りを実現しようと努力してきました。だからこそ、神話時代から一系の皇室が守られてきたのです。

 それに対して、中国やその他世界のほとんどの王朝は自らの利益のために民を犠牲にしてきたので、民の中から、より力のあるものが現れれば、打倒されてしまいます。

 こうした皇室の歴史を辿ることで、我が国の「根っこ」が明らかになり、そこから未来へのエネルギーを吸い上げることができるのです。


■5.会沢正志斎: 西洋列強から国を守るための国体確立

 水戸学は、光圀を中心とする前期水戸学と、藤田幽谷(ゆうこく)を始めとする後期水戸学に分かれます。幽谷は『正名論』において、幕府が皇室を尊べば、諸侯も幕府を尊び、「上下相保ち、万邦協和」の理想的な社会が実現する、と説きました。

 幽谷の弟子の一人が、19世紀初頭から後半にかけて活躍した会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)でした。会沢は寛政4(1792)年にロシアのアダム・ラスクマンが蝦夷地(北海道)東部に来て日本との通商を求めたことを契機にロシア研究を進め、「ヨーロッパ列強による支配が進んでいる世界の中で、日本が独立を守るためには、国家を完全につくり直さなければならない」という問題意識を持ちました。

 その思いから、文政8(1825)年に『新論(しんろん)』を上梓します。日本に迫ってきている西洋列強を見ると、国民の精神的一体感と国家への忠誠心が強みとなっている。軍事力よりも、この精神的な強みこそ、日本にとっての脅威である。

 我が国も西洋諸国の侵略を打ち払うためには、「精神的な統一性」を持つ必要があり、それは皇室を中核とする国民の一体感にほかならない、と会沢は説きました。

 会沢の主張は、当時の幕府政治を批判する内容を含んでいたため、幕府から8年もの間、公務から遠ざけられました。しかし、その間に会沢の名は全国に広まります。さらに1840年からのアヘン戦争で清がイギリスに屈したことで、会沢の西洋帝国主義への警告が正しかったことが明らかになりました。

『新論』は志士たちの聖典となり、吉田松陰は東北への旅の途中、約1ヶ月間、水戸に滞在し、会沢とも数度にわたって語り合いました。松陰が国許に戻って開いた松下村塾では、『新論』をテキストとして高杉晋作木戸孝允伊藤博文などに水戸学を伝えました。

 また久留米出身の神官・真木和泉も『新論』を読んで衝撃を受け、水戸に行って、会沢と何日も語り合いました。その後、真木は京都で尊皇派の公家たちとつながりを持ち、会沢の尊皇思想を伝えたのです。

 こうして水戸学は王政復古を目指す志士や公家たちに広まり、明治維新を導く道標となっていきます。


■6.藤田東湖: 武士から庶民にいたるまで人材育成

 慶喜の父、水戸藩9代藩主・徳川斉昭は、会沢を待読(じどく、お側で学問を教授する学者)として、水戸学を吸収しながら育ちました。第8代藩主・斉脩(なりのぶ)が子がないまま早世すると、跡継ぎ問題が生じますが、ここで弟の斉昭を擁立するのに力があったのが藤田東湖(とうこ)でした。東湖は藤田幽谷の子であり、父の門弟・会沢正志斎などに指導を受けて育ちました。

 第9代藩主となった斉昭に、東湖はブレーンとして以後15年間仕え、水戸学の思想で藩政改革を進めていきます。皇室を中心に民が力を合わせて対外危機を乗り越える共同体を作り上げるには、民を「大御宝」としてその安寧を目指す政治がなされなければなりません。その改革を東湖は水戸藩で成し遂げ、明治日本が目指す国家改革のお手本を示したのです。

 東湖は農村改革による天保の飢饉克服など民政面の業績もありましたが、ここでは教育の重視を挙げておきましょう。東湖は国力の基礎である国体を形成するものは「皇室と民の間の自然に発展した絆である」と信じていました。そして、民衆一人ひとりに至るまで国体を自覚して、その精神を発揚して危機に備えれば、必ず国は護れる、と主張しました。

 そこで東湖が力を尽くしたのが、藩校「弘道館」の設立です。「道」を「弘(ひろ)」めるという、その「道」とは「忠孝」などの儒教道徳とともに、「万世一系の皇統のあらわれた天地自然の秩序道徳」を意味していました。この水戸学の根本を藩士たちに学ばせて、内憂外患の危機を乗り越える人材を育てようとしたのでした。

 すべての藩士とその子弟のうち、15歳以上のものは弘道館で学ぶよう義務づけられました。また庶民からも同様の教育を求める声があがり、各地に「郷校(ごうこう)」が設立されました。

 維新後、明治5(1872)年に新政府は「学制」を発布し、全国で大学8校のもとに中学256校、小学校52,760校を設立するという教育法令を定めました。維新後、わずか5年、新政府の基礎が十分固まらないうちに、壮大な国民教育体制の構築が始められた訳で、これも東湖の思想に負うところが大きかったでしょう。

 東湖の教育思想は「教育勅語」にも顕著に見てとれます。起草者、井上毅(こわし)と元田永孚(もとだ・ながざね)は熊本藩出身で、同藩の横井小楠から多大な感化を受けています。小楠は明治維新のシナリオ・ライターとまで言われた人物ですが、天保10(1839)年に東湖と面会して以来、「諸藩中虎之助(東湖)程の男少なかる可(べ)し」と惚れ込んでいました。

 明治日本の世界史的躍進の原動力となったのは、国民一人ひとりの志に火をつけ、能力を最大限に引き出した教育の力ですが、そのお手本を示したのも、水戸学だったのです。

 西郷隆盛も、東湖の思想に心酔した一人でした。東湖は来る者を拒まず、身分を問わず夜の更けるまで談じることが常でした。慶喜は水戸学の教えに基づいて、幕府の幕を下ろしたのですが、他方の薩摩長州も水戸学から学んで、王政復古を目指していたのです。


■7.「世界を変えるのは、人の想いであり、それが昇華した思想」

 マイケル・ソントン氏は水戸をボストンに対比します。「ボストン同様に、世界で最も重要な革命の生誕地である」からです。

 ボストンは、アメリカ独立革命震源地であり、独立の提唱者サミュエル・アダムス、第二代大統領ジョン・アダムス、思想家ベンジャミン・フランクリンなどを輩出しています。独立革命軍としては、総司令官ジョージ・ワシントンを出した南部のバージニアが柱でしたが、思想的にはボストンが中心でした。従って水戸はボストンであり、薩長バージニアだと言えるでしょう。

 その上で、ソントン氏は、こう結論づけています。

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 だが、世界を本当の意味で変えるのは、「力」ではない。
 それは、日本を変革する原動力となった水戸が証明している。世界を変えるのは、人の想いであり、それが昇華した思想であるはずだ。
 変革の時代を迎えた今だからこそ、近代日本を創った水戸を改めて知ってもらいたい、それが私の最大の願いである。
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 日本人として、聞き流せない言葉です。本誌も少しずつでも水戸学を築いた先人たちの声に耳を傾けていきましょう。
(文責 伊勢雅臣)