tarobee8のブログ(戯言)

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母が病気になってから兄弟たちの本性が分かりました(途中までです)

2006年初めに母から「今の変な病院を辞めて私の仕事を覚えて欲しいの」と何度も懇願されて、70才まで勤めて欲しいと言われていた病院ですが、ブラック企業なのもあり、看護部長と対立していたのもあり、辞表を出しましたが、私がいないとやっていけない病院だったので、もちろんそう簡単に辞めさせてくれません。そうこうしているうちに何でもない事で腰を痛めて整形外科に労災で通院していて、2週間の治療と安静が必要と診断書が書かれて提出したら、欠勤扱いになりました。辞表を提出してから相当経過しているのに返事もないので、事務長に聞くと辞表は受理できないと言われました。

が、どうしても辞めさせてもらうとケンカしてまで辞めさせてもらえましたが、「覚悟はできているね」と言われています。今までには、他の病院に行けないようにサスペンドされていましたが(私がいないと困るので)、今度は今の病院に再就職も出来ないようにすると言う意味です。約束していた辞職の日に行って荷物は処分して、事務所に行くと、当日までには用意しておいて欲しいとお願いしていた書類は用意されておらず、結局3回も行ってやっと書類が揃いました。嫌がらせです。退職金もいつまで経っても入金しません。電話しても待たされていつも担当者が出ずに切られます。労災の書類も出してもらえず。やっと労災の事務所から連絡があり、行って事情聴取を受けて手続きが出来ました。退職金の件は手紙を書いてコピーしておいて、書状にて返事をして下さい。この内容はコピーしてありますと書いたら、やっと雀の涙ほどの退職金が出ました。

その間に母が急病で倒れて入院して、緑内障の大発作も起こしていました。私は夕方かっら翌朝10時まで兄嫁が来るまで付き添っていました。ある日、付き添いが終わって帰宅して休んでいると電話があり、母が予定より早く今から退院することになったと兄嫁から。車で迎えに行きました。もう夕方なので、翌朝母を連れて知り合いの眼科に連れて行こうとしたら、兄嫁が「私が連れて行きますから」と言うので、緑内障の大発作を起こしているので早く連れて行かんと失明すると言いましたが「分かってます」と言うので兄嫁に任していたら何時まで経っても連れて行きません。私が母を車に乗せて眼科に連れて行こうとしたら、また兄嫁が「私が連れて行きますから」と言うので、そんな悠長な事を言っていたら大事になると拒否しましたが、どうしても私が連れて行くと言うのでしょうがなく任せたら、退院してから1週間以上経ってやっと実家の近くの眼科に連れて行ってレーザー照射して大発作を抑えました。4週間に1回土曜日に連れて行っていました。点眼薬は私がしていましたが、ある日からバッタリ行かなくなりました。

母に理由を聞くと「先生がロボットみたいなから」と「いつもいない人が傍にいるのが耐えられないから」と言います。僕が・・・眼科に連れて行ってあげるよと言うも「もう行かん」と言い張ります。兄嫁と兄は父が亡くなってから母宅に行かなくなっていました。

おまけに母がいつも受診していた病院の薬でガスターがあるんですが、ガスターを夕方飲むように泣ていたのですが、降圧剤だと思い込んでいて、「血圧の薬は朝だけでいいと言われているから飲まん」の一点張りで案の定、食欲低下や幽門狭窄などの症状が出て来て、全く飲まず食わずの日々が続きました。いくら母にこの薬は胃潰瘍の薬だから飲まんからこのようになると言っても頑として聞きません。母は凄く頑固なんです。おまけに境界性人格障害もあって、扱いの難しい人なんです。なので母の仕事をおぼ終えるのに母はもう昔のように自由自在に動けなくて嘆き悲しんでいました。仕事を教えてくれるどころじゃありません。なので、自分で探し出したりして仕事を徐々に覚えて行って、何とか確定申告に間に合いました。そのっ前に絶対に買ったらいけんと言っていた庭付きマンションのクレール琳琳を買っていて、調子に乗ってその南にある草ボーボーの駐車場も3000万円の借入金を銀行からして購入して、アスファルト敷の駐車場にしてしまいました。南区にあるソシアル琥珀と言う大赤字の賃貸マンションも私はどこかの会社に土地を貸して・・・と言っていたのですが、兄が母の意見に大賛成するもんだからしょうがなく賛成しました。そして「もうこれ以上手を広げんように」と念を押しておいたのですが。

クレール琳琳はすぐに草ボーボーになるし、ジャングル状態だったので、私が開墾して奇麗にして行きました。草は最初は手で抜いていましたが、1人では無理で、除草剤を使うようになりました。南にある駐車場も琳琳の庭の地面深くから色んな植物が崖から伸びて来ては車の邪魔になるので、根元から切っては根元に除草剤をかけて殺していました。琳琳の庭は暴れまくりで、平定するのに何年もかかりました。須郷手のかかるマンションでした。「このマンションさえなければもっと楽なのに」とあれほど買うなと言っていたのに買ってしまった愚策に情けなかったです。後に何にもせん兄が母をそそのかして大金をはたいて借金までさせて買わせたのを知り私は兄に激怒しました。

兄は本当に何にもせんブルジョアです。兄のせいで母の財産はたくさんの負動産と超多額の借金と現金が異常に少ないと言う最悪のパターン。

やがて母は認知症になり、母のお世話をする者はいつも私1人だけ。兄嫁は役立たずで、2009年に実家の父の介護をすると言う名目で実家に帰った期入り2度と戻ってきていません。私は母の介護と賃貸物件の経営と管理と野良仕事と庭仕事と1210m^2もある母宅の広大な家の庭仕事と野良仕事と広大な母宅の管理をしていて、母の認知症がどんどん進行して行ってどんどん手がかかるようになり、兄弟たちに助けを求めるもみな拒否されました。それまで、趣味の天体観測で三脚を除いたコンピューターの入った望遠鏡本体が40Kgもあり、1か月に最低でも5,6回使って45度傾斜の15階段を持ち運びしていても平気でした。南区の段原にいあるマンションや駐車場の管理も歩いてJRで行ってはそこからまた歩いていました。琳琳の管理も歩いて行ってしていました。掃除も歩いて行ってしていました。が、母の認知症がどんどん悪化して行き、移動には時間がないのでいつも車を使っていました。自分の時間さえもなくなりました。大好きな天体観測も超重たい望遠鏡を持ち運ぶ事が極端に減って行きました。そして、凄いストレスの連続で色々な病気に罹り自分の命さえも危ないのに何もかも私がやらないと誰も代わりにやってくれる者がいません。母はヘルパーさんもダメで、試しに1回行かせたデーサービスも大はしゃぎで、興奮しすぎて翌日はグッタリで「もう行かん」と言う始末。

本体だけで40KgもあるLX200GPS-25は持って降りるのはあいいけど、45度傾斜の15階段を持って帰るのに下半身が付いて行かずに、階段を3段上がるとそこからが、超大変。玄関前の踊り場まで待って上がると死にそうにまで息が上がって、頭の血管は切れそう。

母の手はますまmすかかるようになっても誰も助けてくれず、粗探しばかりされては文句だけは100人前言われていました。感謝してくれていた母もとうとう意思表示できなくなりました。私は特に凄いストレスの連続で血圧はうなぎ上り。降圧剤はとうとうこれ以上処方できない極量まで達して久しかったです。糜爛性胃炎でガスターも飲んでいました。満身創痍の状態でした。

2014年になり母は薬は拒否して、食べるものもロクに食べず。私はノロウィルスに感染して酷い嘔吐で1番十トイレい言行っては吐きまくっていて、兄に事情を説明して代わってくれとお願いしても「ダメじゃ」と拒否されました。そして母に移してしまい、母は入院。退院後も体力は低下していて、とうとう拒食、飲み物も飲まず、薬も飲まず。

このままでは共倒れになるからと、2014年5月14日の午後3時が母の定期の病院の受診日で、前の日に入院に必要な物は買って置いて、車の助手席に入れておいて、当日の午後3時に母を連れて車で病院に行きました。母は私にすがったまま歩くのが精いっぱい。

すぐ診察に呼ばれて、主治医に「もう何週間も何も食べてないし、何も飲んでいない。入院させて欲しい」とお願いいしました。主治医は「入院させてあげるけど、横滑りの生活が始まるよ」と言われました。よく滑りの生活とは、重度の認知所の母を受け入れてくれる施設や病院を探す生活が始まるよと言う意味です。

その頃私は琳琳の剪定や母宅のに岩仕事や野良仕事の積み重なりで中腰になる事が多くてある日剪定中にぎっくり腰になって整形外科に毎朝1番に受診していました。

政経が家に受診しながら毎日昼と夕方に行っては母に何とかカロリー入りの三ツ矢サイダー―を飲ませたり、洗濯物を持って帰っては洗濯して持ってきたりしていました。

それまで人目に触れる事がなかった兄は人目があるのとないのでは正反対で、妹も帰省して来て私と兄と妹の3人が毎日病院に行っていました。

天敵は13日間で中止になり、後は主治医は同じグループの外来の透析専門のクリニックの院長だったので、その病院の常勤の医師が主治医になり、ケース若―さんと一緒になって母の今後について相談して、あちこちの施設や病院を紹介されては行っていました。2014年6月4日にナカムラ病院と言う認知症専門の病院に入院することになりました。私がその前に面接に行った時に今までの経緯を簡潔明瞭話していたので、この家族は協力的だと判断されていたからです。兄や妹ではダメだったでしょう。

その日は介護タクシーを母に載せて私が同乗してナカムラ病院に行きました。

そして、再度色々と尋ねられてその間に母親は着替えをしてもらいました。

母はバンザイバンザイと車いすの乗ったまま叫んでいました。

長くなるのでこの続きはまた書きますね。