tarobee8のブログ(戯言)

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織田信長は本当は優しい人だった

ダイレクト出版のメルマガより

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

 

という句で有名な歴史上の人物…織田信長
あなたは、彼の本当の素顔をご存じでしょうか?
若い頃から“大うつけ”と呼ばれるほどの破天荒ぶり。比叡山に火を放ち、僧侶の首を次々にはねて… 敵武将の髑髏(どくろ)をあてに宴を開催したなどの逸話から “第六天魔王”との異名で恐れられるなど…
残虐な側面が大きく取り上げられている信長。
しかし、信長が生きていた頃に書かれた史料によると、実際は「魔王」どころか心優しい武将だったことが垣間見られるようです。さらに、「天皇に忠義を尽くした勤王の武将」「神仏を深く信仰していた」など…。どうにも定説とは辻褄の合わない記述が目立つのです。
一体、信長とはどんな人物だったのか…?
日本人が知らない織田信長の姿をご紹介します。

 
 
 

戦前と戦後でガラリと変わる信長の素顔

実は、戦前と戦後で織田信長の評価はガラリと変わります。
というのも、今でこそ「天下統一のためには手段を選ばない革命児」と呼ばれ、残酷な面が取り上げられている信長ですが…戦前にはお国のため、天皇のために尽くした姿が盛んに語られていたのです。

 
 

●20年に一度行われてきた伊勢神宮式年遷宮。しかし、戦乱の時代であったために式年遷宮が100年以上行われていませんでした。この状況を知ると、信長は3000貫もの大金(現代の価値では3億5000万円)をすぐに用意。伝統の再興に惜しげもない巨費を投じました。
●京都の由緒ある神社の一つ、石清水八幡宮の社殿が雨漏りしていることを聞きつけると、高価な金箔を使用した雨どいを急いで手配するように命じています。今後、修造費用に苦慮した際には換金できるように…という意味もあったといいます。
比叡山延暦寺を焼き払った信長。実は当時、延暦寺は討伐の対象になっていた軍勢を匿っており、将軍・足利義昭天皇までも、信長の討伐軍を歓迎したのです。信長は「逆賊を寺から追い出さないと寺を燃やす」と2回の警告を送りましたが、延暦寺はこれを無視して反抗。「やむをえん…」と焼き討ちを決断しました。
●当時、日本には外国からの脅威が迫っていました。というのも、ポルトガルとスペインが世界征服を企み次々に植民地を増やしていたのです。しかし、大量の銃を使い敵軍を圧倒していた信長の突出した強さの噂が伝わり、侵略を断念したとも言われています。(※宣教師サビエルを日本に派遣したイエズス会の報告にも最も有力な大名は信長である」と評されています)

 

教科書が教えない国難を乗り越えた英雄たちの想い

いかがだったでしょうか?
史実を紐解くことで見えてくる信長の意外な側面。小説や大河ドラマで描かれている残酷なイメージと全く違うことがお分かりいただけたと思います。
実は、ありのままの史実を知るとイメージがガラッと変わるのは信長だけではありません。聖徳太子北条時宗勝海舟など。誰もが知っている日本の歴史上の人物たちには、私たちの知らない意外な一面がたくさんあります。
しかし、このような姿は、現在の学校の教科書にはもちろん記されておらず、教師の口から語られることもありません。戦後になって教えられることがなくなり、急激に薄れ、消えかかってしまっています。

日本の英雄はどうやって国難を乗り越えたのか?そして、未来を生きる私たちに何を遺したかったのか?
2,600年という世界でも一番長い歴史を持つ国・日本には、どの国よりも歴史の知見が。今のわれわれに勇気や希望を与えてくれる資産があるのに、それらはほとんど知られることがありません...